し、婦人を取扱うこと下婢《かひ》の如く、また罪人の如くして、かつてこれを恥ずる色なし。浅ましきことならずや。一家の主人、その妻を軽蔑すれば、その子これに傚《ならっ》て母を侮《あなど》り、その教を重んぜず。母の教を重んぜざれば、母はあれどもなきが如し。孤子《みなしご》に異ならざるなり。いわんや男子は外を勤《つとめ》て家におること稀なれば、誰かその子を教育する者あらん。哀《あわれ》というも、なおあまりあり。
『論語』に「夫婦別あり」と記せり。別ありとは、分けへだてありということにはあるまじ。夫婦の間は情《なさけ》こそあるべきなり。他人らしく分け隔ありては、とても家は治《おさま》り難し。されば別とは区別の義にて、この男女《なんにょ》はこの夫婦、かの男女はかの夫婦と、二人ずつ区別正しく定るという義なるべし。然るに今、多勢《たぜい》の妾を養い、本妻にも子あり、妾にも子あるときは、兄弟同士、父は一人にて母は異《こと》なり。夫婦に区別ありとはいわれまじ。男子に二女を娶《めと》るの権あらば、婦人にも二夫を私《わたくし》するの理なかるべからず。試《こころみ》に問う、天下の男子、その妻君が別に一夫を愛し、一婦二夫、家におることあらば、主人よくこれを甘んじてその婦人に事《つかう》るか。また『左伝《さでん》』にその室《しつ》を易《かう》うということあり。これは暫時《ざんじ》細君を交易することなり。
孔子様は世の風俗の衰うるを患《うれえ》て『春秋』を著し、夷狄《いてき》だの中華だのと、やかましく人をほめたり、そしりたりせられしなれども、細君の交易はさまで心配にもならざりしや、そしらぬ顔にてこれをとがめず。我々どもの考にはちと不行届のように思わるるなり。あるいはまた、『論語』の「夫婦別あり」も、ほかに解しようのある文句か。漢儒先生たちの説もあるべし。
親に孝行は当然のことなり。ただ一心に我が親と思い、余念なく孝行をつくすべし。三年父母の懐《ふところ》をまぬかれず、ゆえに三年の喪《も》をつとむるなどは、勘定ずくの差引にて、あまり薄情にはあらずや。
世間にて、子の孝ならざるをとがめて、父母の慈ならざるを罪する者、稀なり。人の父母たる者、その子に対して、我が生たる子と唱え、手もて造り、金もて買いし道具などの如く思うは、大なる心得ちがいなり。天より人に授かりたる賜《たまもの》なれば、これを大切に
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