道を知らざる者なり。不敬不埒と言うよりも常識を失う朱愚と言う可し、大倫を弁《わきま》えざる人非人と言う可し。女子の注意して心に銘ず可き所のものなり。
一 小児養育は婦人の専任なれば、仮令い富貴の身分にても天然の約束に従て自から乳を授く可し。或は自身の病気又は衛生上の差支より乳母を雇うことあるも、朝夕の注意は決して怠る可らず。既に哺乳の時を過ぎて後も、子供の飲食衣服に心を用いて些細の事までも見遁《みのが》しにせざるは、即ち婦人の天職を奉ずる所以《ゆえん》にして、其代理人はなき筈なり。飲食衣服は有形の物にして誰れの手を以て与うるも同様なるに似たれども、其これを与うるの間に母徳無形の感化力は有形物に優ること百千倍なるを忘る可らず。蚕《かいこ》を養うにも家人自からすると雇人に打任せるとは其生育に相違ありと言う。況んや自分の産みたる子供に於てをや。人任せの不可なるは言わずして明白なる可し。世間の婦人或は此道理を知らず、多くの子を持ちながら其着物の綻《ほころび》を縫うは面倒なり、其食事の世話は煩わしとて之を下女の手に託し、自分は友達の附合、物見遊山などに耽《ふけ》りて、悠々閑々たる者あるこそ気の毒なれ。元来を言えば婦人の遊楽決して咎む可らず。鬱散養生とあれば花見も宜し湯治も賛成なり、或は集会宴席の附合も自から利益なれども、其外出するや子供を家に残して夫婦の留守中、下女下男の預りにて、初生児は無理に牛乳に養わるゝと言う。恰も雇人に任せたる蚕の如し。其生育如何は自問して自答に難からざる可し。在昔《ムカシ》大名高家の子供に心身|暗弱《あんじゃく》の者多かりしも、貴婦人が子を産むを知て子を養育する法を忘れたるが故なり。篤《とく》と勘考す可き所のものなり。故に我輩は婦人の外出を妨げて之を止むるに非ず、寧ろ之を勧めて其活溌ならんことを願う者なれども、子供養育の天職を忘れて浮かれ浮かるゝが如きは決して之を許さず。此点に就ては西洋流の交際法にも感服せざるもの甚だ多し。又婦人は其身の境遇よりして家に居り家事を司どるが故に、生理病理に就て多少の心得なくて叶わぬことなり。家人の病気に手療治などは思いも寄らず、堅く禁ずる所なれども、急病又は怪我などのとき、医者を迎えて其来るまでの間にも頓智あり工風《くふう》あり、徒《いたずら》に狼狽《うろた》えて病人の為めに却て災を加うること多し。用心す可き事なり。例
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