唯快楽の一方のみと思い却て苦労の之に伴うを忘れて、是に於てか男子が老妻を捨てゝ妾を飼い、婦人が家の貧苦を厭《いと》うて夫を置去りにするなどの怪事あり。畢竟結婚の契約を重んぜざる人非人にこそあれ。慎しむ可き所のものなり。
一 女子の結婚、就中《なかんずく》その他家に嫁したる結婚の後、その家の舅姑に事《つか》うるの法如何は古来世論の喋々《ちょうちょう》する所にして、又実際に於ても女同士なる姑と嫁との間に衝突の起るは珍らしからず。仮令《たと》い或は表面に衝突せざるも、内心相互に含む所ありて打解けざるは、日本国中の毎家殆んど普通と言うも可なり。天下の姑|悉《ことごとく》皆《みな》悪婦にあらず、天下の嫁悉皆悪女子にあらざるに、其人柄の良否に論なく其間の概して穏ならざるは、畢竟人の罪に非ず勢の然らしむる所、一歩を進めて論ずれば世教習慣の然らしむる所なりと言わざるを得ず。其世教に教うる所を聞けば、嫁の舅姑に事うるは実の父母の如くせよ、実の父母よりも更らに厚くして更らに親しみ敬えと教うると同時に、舅姑に向ては嫁を愛すること真実の娘の如くせよと言う。此事果して実際に行わるれば好都合なれども、天然の人情は如何ともす可らず。父母に非ざる者を父母とし、娘に非ざる者を娘とすることは叶わずして、是に於てか相互の交際は、万事に就き心の底より出でずして、動《やや》もすれば表面の儀式に止まること多し。仮令い或は其一方が真実打解けて親まんとするも、先方の心に何か含む所あるか、又は含む所あらんと推察すれば、何分にも近づき難きが故に、俗に言う触らぬ神に祟《たたり》なしの趣意に従い、一通りの会釈挨拶を奇麗にして、思う所の真面目《しんめんぼく》をば胸の中に蔵《おさ》め置くより外にせん術《すべ》もなし。即ち双方の胸に一物《いちもつ》あることにして、其一物は固より悪事ならざるのみか、真実の深切、誠意誠心の塊にても、既に隠すとありては双方共に常に釈然たるを得ず、之を彼の骨肉の親子が無遠慮に思う所を述べて、双方の間に行違もあり誤解もありて、親に叱られ子に咎められながら、果ては唯一場の笑に附して根もなく葉もなく、依然たる親子の情を害することなきものに比すれば、迚《とて》も同年の論に非ず。左れば舅姑と嫁との間は、其人品の如何に拘らず其家風の如何に論なく、双方をして真に骨肉の親子の如くならしめんとするも、千一万一の異例の外
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