》見るべし。政治の働は、ただその当時に在りて効を呈するものと知るべきのみ。
 これに反して教育は人の心を養うものにして、心の運動変化は、はなはだ遅々《ちち》たるを常とす。ことに智育有形の実学を離れて、道徳無形の精神にいたりては、ひとたびその体を成して終身変化する能《あた》わざるもの多し。けだし人生の教育は生れて家風に教えられ、少しく長じて学校に教えられ、始めて心の体を成すは二十歳前後にあるものの如し。この二十年の間に教育の名を専にするものは、ただ学校のみにして、凡俗《ぼんぞく》また、ただ学校の教育を信じて疑わざる者多しといえども、その実際は家にあるとき家風の教を第一として、長じて交わる所の朋友を第二とし、なおこれよりも広くして有力なるは社会全般の気風にして、天下武を尚《とうと》ぶときは家風武を尚び、朋友武人となり学校また武ならざるをえず。文を重んずるもまた然《しか》り、芸を好むもまた然り。
 ゆえに社会の気風は家人を教え朋友を教え、また学校を教うるものにして、この点より見れば天下は一場の大学校にして、諸学校の学校というも可なり。この大学校中に生々する人の心の変化進歩するの様を見るに、決して急劇なるものに非ず。たとえば我が日本にて古来、足利の末葉、戦国の世にいたるまで、文字の教育はまったく仏者の司どるところなりしが、徳川政府の初にあたりて主として林道春《はやしどうしゅん》を採用して始めて儒を重んずるの例を示し、これより儒者の道も次第に盛にして、碩学大儒続々輩出したりといえども、全国の士人がまったく仏臭を脱して儒教の独立を得るまでは、およそ百年を費し、元禄のころより享保以下にいたりて、はじめて世相を変じたるものの如し。(徳川をはじめとして諸藩にても新に寺院を開基し、または寺僧を聘《へい》して政事の顧問に用うるが如き習慣は、儒教のようやく盛なるとともに廃止して享保以下にこれを見ること少なし。)
 また近時の日本にて、開国以来大に教育の風を改めて人心の変化したるは外国交際の刺衝《ししょう》に原因して、その迅速なること古今世界に無比と称するものなれども、なおかつ三十の星霜を費し、然《し》かも識者の眼には今日の有様をもって変化の十分なるものとせず。如何となれば世間往々旧時の教育法に恋々する者あるをもって、新教育の未だ洽《あま》ねからざるを知るべければなり。教育の効の緩慢にして、
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