小学教育の事
福沢諭吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仕立《したて》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今日|家内《かない》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)めし[#「めし」に白丸傍点]
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小学教育の事 一
教育とは人を教え育つるという義にして、人の子は、生れながら物事を知る者に非ず。先きにこの世に生れて身に覚えある者が、その覚えたることを二代目の者に伝え、二代目は三代目に授けて、人間の世界の有様を次第次第に良き方に進めんとする趣意なれば、およそ人の子たる者は誰れ彼れの差別なく、必ず教育の門に入らざるをえず。いかなる才子・達人にても、人に学ばずして自から得たるためしあることを聞かず。教育は全国一般にあまねくすべきものなり。
教育の大切なることかくの如し。国中一般に行届きて、誰れも彼れも学者に仕立《したて》たきことなれども、今日の事業において決して行われ難し。子供に病身なる者あり、不具なる者あり。家内に病人あり、災難あり。いずれも皆、子供の教育に差支《さしつかえ》たるべきものなり。されどもこれらは非常別段のこととして、ここにその差支のもっともはなはだしく、もっとも広きものあり。すなわち他にあらず、身代《しんだい》の貧乏、これなり。およそ日本国中の人口三千四、五百万、戸数五、六百万の内、一年に子供の執行金《しゅぎょうきん》五十円ないし百円を出して差支なき者は、幾万人もあるべからず。一段下りて、本式の学問執行は手に及ばぬことなれども、月に一、二十銭の月謝を出すか、または無月謝なれば、子供の教育を頼むという者、また幾十万の数あるべし。
それより以下幾百万の貧民は、たとい無月謝にても、あるいはまた学校より少々ずつの筆紙墨など貰うほどのありがたき仕合《しあわせ》にても、なおなお子供を手離すべからず。八歳の男の子には、草を刈らせ牛を逐《お》わせ、六歳の妹には子守の用あり。学校の教育、願わしからざるに非ず。百姓の子が学問して後に立身するは、親の心にあくまでも望む所なれども、いかんせん、その子は今日|家内《かない》の一人にして、これを手離すときはたちまち世帯《せたい》の差支となりて、親子もろとも飢寒《きかん》の難渋《なんじゅう》まぬかれ難し。これを下等の貧民幾百万戸一様の有様という。
貧民の有様、かくの如しといえども、近年は政府よりもしきりに御世話、市在《しざい》の老人たちもしきりに説諭、また一方には、日本の人民も久しく太平文化の世に慣れて、教育の貴《たっと》きゆえんを知り、貧苦の中にも、よくその子を教育の門に入らしめ、もって今日の盛なるにいたりしは、国のために目出度《めでたき》ことというべし。然りといえども、物事には必ずかぎりある者にて、たとい貧民が奮発するも、子を教育するがために、事実、家内の飢寒を忍ぶべからず。すなわち飢寒と教育と相対《あいたい》して、この界《さかい》をば決して踰《こ》ゆべからざるものなり。
ゆえに今、文部省より定めたる小学校の学齢、六歳より十四歳まで八年の間とあれども、貧民は決してこの八年の間、学に就く者なし。最初より学校に入らざる者はしばらくさしおき、たとい一度入学するも、一年にしてやめにする者あり、二年にして廃学する者あり。その廃学するとせざるとは、たいてい家の貧富の割合にしたがうものにして、廃する者は多く、廃せざる者は少なし。飢寒と教育と正《まさ》しく相対してその割合の違《たが》わざること、もって知るべし。
されば今、日本国中に小学の生徒は必ず中途にて廃学すること多き者と認めざるをえず。すでに廃学に決してとどむべからざる者なれば、たとい廃学するも、その廃学の日までに学び得たることをもって、なおその者の生涯の利益となすべき工夫なかるべからず。今日学務においてもっとも大切なることなれば、いささか余が所見を述《のぶ》ること左の如し。各地方小学教師のために備考の一助ともならば幸甚《こうじん》のみ。
小学教育の事 二
平仮名と片仮名とを較《くら》べて、市在《しざい》民間の日用にいずれか普通なりやと尋《たずぬ》れば、平仮名なりと答えざるをえず。男女の手紙に片仮名を用いず。手形《てがた》、証文、受取書にこれを用いず。百人一首はもとより、草双紙《くさぞうし》その他、民間の読本《よみほん》には全く字を用いずして平仮名のみのものもあり。また、在町《ざいまち》の表通りを見ても、店の看板、提灯《ちょうちん》、行灯《あんどん》等の印《しるし》にも、絶えて片仮名を用いず。日本国中の立場《たてば》・居酒屋に、めし[#「めし」に白丸傍点]、にしめ[#「にしめ」に白丸傍点]と障子に記したるはあれども、メシ[#「メシ」に白丸傍点]、ニシメ[#「ニシメ」に白丸傍点]と記したるを見ず。今このめし[#「めし」に白丸傍点]の字は俗なるゆえメシ[#「メシ」に白丸傍点]と改むべしなど国中に諭告《ゆこく》するも、決して人力の及ぶべき所に非ず。
さればここに小学の生徒ありて、入学の後一、二カ月をすぎ、当人の病気か、親の病気か、または家の世帯《せたい》の差支《さしつかえ》をもって、廃学することあらん。その廃学のときに、これまで学び得たるものを調べて、片仮名を覚えたると平仮名を覚えたると、いずれか生涯の利益たるべきや。平仮名なれば、ごくごく低き所にて、めしやの看板を見分くる便《たより》にもなるべきことなれども、片仮名にてはほとんど民間にその用なしというも可なり。これらの便・不便を考うれば、小学の初学第一歩には、平仮名の必要なること、疑《うたがい》をいるべからざるなり。
また、片仮名にもせよ、平仮名にもせよ、いろは四十七文字を知れば、これを組合せて日用の便を達するのみならず、いろはの順序は一二三の順序の代りに用い、またはこれに交《まじ》え用うること多し。たとえば、大工が普請《ふしん》するとき、柱の順番を附くるに、梁間《はりま》(家の幅なり)の方、三尺|毎《ごと》にいろはの印を付け、桁行《けたゆき》(家の長さ)の方、三尺毎に一二三を記し、いの三番、ろの八番などいうて、普請の仕組もできるものなり。大工のみにかぎらず、無尽講《むじんこう》のくじ、寄せ芝居の桟敷《さじき》、下足番《げそくばん》の木札等、皆この法を用うるもの多し。学者の世界に甲乙丙丁の文字あれども、下足番などには決して通用すべからず。いろはの用法、はなはだ広くして大切なるものというべし。
然るに不思議なるは、王制維新以来、五十|韻《いん》ということを唱《となえ》だして、学校の子供に入学のはじめより、まずこの五十韻を教えて、いろはを後にするものあり。元来五十韻は学問(サイヤンス)なり。いろはは智見(ノウレジ)なり。五十韻は日本語を活用する文法の基《もとい》にして、いろははただ言葉の符牒《ふちょう》のみ。
この符牒をさえ心得れば、たといむつかしき文法は知らずとも、日用の便利を達するに差支えはなかるべし。文法の学問、はなはだ大切なりといえども、今日の貧民社会、まず日用を便じて後の学問ならずや。五十韻を暗誦して、いろはを知らざる者は、下足番にも用うべからず。然るに、生れて第一番の初学に五十韻とは、前後の勘弁なきものというべし。この事は七、八年前より余が喋々《ちょうちょう》説弁《せつべん》する所なれども、かつてこれに頓着《とんちゃく》する者なし。近来はほとんど説弁にも草臥《くたびれ》たれども、なおこれを忘るること能わず。最後の一発としてここにこれを記すのみ。
書家の説にいわく、楷書《かいしょ》は字の骨にして草書は肉なり、まず骨を作りて後に肉を附くるを順序とす、習字は真より草に入るべしとて、かの小学校の掛図などに楷書を用いたるも、この趣意ならん。一応もっとも至極の説なれども、田舎の叔母より楷書の手紙到来したることなし、干鰯《ほしか》の仕切《しきり》に楷書を見たることなし、世間日用の文書は、悪筆にても骨なしにても、草書ばかりを用うるをいかんせん。しかのみならず、大根の文字は俗なるゆえ、これに代るに蘿蔔《らふく》の字を用いんという者あり。なるほど、細根《ほそね》大根を漢音《かんおん》に読み細根《さいこん》大根といわば、口調も悪しく字面《じづら》もおかしくして、漢学先生の御意《ぎょい》にはかなうまじといえども、八百屋の書付《かきつけ》に蘿蔔一束|価《あたい》十有幾銭と書きて、台所の阿三《おさん》どんが正《まさ》にこれを了承《りょうしょう》するの日は、明治百年の後もなお覚束《おぼつか》なし。
このほかにも俗字の苦情《こごと》をいえば、逸見《へんみ》もいつみと読み、鍛冶町《かぢちょう》も鍛冶町と改めてたんやちょうと読むか。あるいはまた、同じ文字を別に読むことあり。こは、その土地の風ならん。東京に三田《みた》あり、摂州《せっしゅう》に三田《さんだ》あり。兵庫の隣に神戸《こうべ》あれば、伊勢の旧城下に神戸《かんべ》あり。俗世界の習慣はとても雅学先生の意に適すべからず。貧民は俗世界の子なり。まず、骨なしの草書を覚えて廃学すればそれきりとあきらめ、都合よければ後に楷書の骨法をも学び、文字も俗字を先きにして雅言を後にし、まず大根を知って後に蘿蔔に及ぶべきなり。
小学教育の事 三
筆算と十露盤《そろばん》といずれか便利なりと尋ぬれば、両様ともに便利なりと答うべし。石盤と石筆との価、十露盤よりも高からず、その取扱もまた十露盤に異ならず。かつ、筆算は一人の手にかない、十露盤は二人を要す。算の遅速《ちそく》は同様なるも、一人の手間《てま》だけははぶくべし。ここにて考うれば、筆算に便利あるが如くなれども、数の文字、十字だけは、横文《おうぶん》を知らずしてかなわぬことなれば、今の学校にて教育を受けたるものよりほかには通用すべからず。たとい学校にて加減乗除・比例等の術を学び得て家に帰るも、世間一般は十露盤の世界にしてたちまち不都合あり。
父兄はもちろん、取引先きも得意先きも、十露盤ばかりのその相手に向い、君は旧弊の十露盤、僕は当世の筆算などと、石筆をもって横文字を記すとも、旧弊の連中、なかなかもって降参の色なくして、筆算はかえって無算視《むさんし》せらるるの勢なり。いわんや、その筆算の加減乗除も少しく怪しき者においてをや。学校の勉強はまったく水の泡《あわ》なり。もしもこの生徒が入学中に十露盤の稽古《けいこ》したることならば、その初歩に廃学するも、雑用帳の〆揚《しめあ》げぐらいは出来《でき》て、親の手助けにもなるべきはずなるに、虎の画を学んで猫とも犬とも分らぬもののできたるさまなり。つまり猫ならばはじめから猫を学ぶの便利にしかず。理屈においては筆算と十露盤とともに便利なれども、今の浮世の事実においては、筆算は不便利といわざるをえざるなり。
小学には少しく縁の遠きことなれども、筆算のついでに記簿|帳合《ちょうあい》の事をいわん。明治の初年、余が始めて西洋|簿記法《ぼきほう》の書を読み、その後これを翻訳して『帳合之法』二冊を出版せしころより、世間にもようやく帳合の大切なるを知り、近来は稀《まれ》に俗間にもこの帳合法を用うるものあり。然るに西洋流の帳面をそのままに用い、横文の数字を横に記して、人の姓名も取引の事柄も日本の字を横に書き、いわば額面《がくめん》の文字を左の方から読む趣向にするものありと聞けり。
この趣向はなはだ便利なり。第一、西洋の帳面を摸製するにやすく、あるいは摸製せざるも出来合《できあい》の売物もあり。第二、文字こまかに帳面薄くして取扱に便利なり。少しく横文字の心得ある者なれば、西洋の記簿法を翻訳するにも及ばず、ただちにその法にしたがってその帳面を用ゆべしといえども、今後永年の間、日本国中に帳合法流行の盛否《せいひ》に関しては、おおいに不便利なるものあり。
そもそも帳合法の大切なるは、いまさらいうまでもなし。帳合の法を知らずして商売する者は、道を知らずして道を歩行する人の如し。風
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