ず。然るに、生れて第一番の初学に五十韻とは、前後の勘弁なきものというべし。この事は七、八年前より余が喋々《ちょうちょう》説弁《せつべん》する所なれども、かつてこれに頓着《とんちゃく》する者なし。近来はほとんど説弁にも草臥《くたびれ》たれども、なおこれを忘るること能わず。最後の一発としてここにこれを記すのみ。
 書家の説にいわく、楷書《かいしょ》は字の骨にして草書は肉なり、まず骨を作りて後に肉を附くるを順序とす、習字は真より草に入るべしとて、かの小学校の掛図などに楷書を用いたるも、この趣意ならん。一応もっとも至極の説なれども、田舎の叔母より楷書の手紙到来したることなし、干鰯《ほしか》の仕切《しきり》に楷書を見たることなし、世間日用の文書は、悪筆にても骨なしにても、草書ばかりを用うるをいかんせん。しかのみならず、大根の文字は俗なるゆえ、これに代るに蘿蔔《らふく》の字を用いんという者あり。なるほど、細根《ほそね》大根を漢音《かんおん》に読み細根《さいこん》大根といわば、口調も悪しく字面《じづら》もおかしくして、漢学先生の御意《ぎょい》にはかなうまじといえども、八百屋の書付《かきつけ》に蘿蔔一
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