経世の学、また講究すべし
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)初学の輩《はい》
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 ある人いわく、慶応義塾の学則を一見し、その学風を伝聞しても、初学の輩《はい》はもっぱら物理学を教うるとのこと、我が輩のもっとも賛誉するところなれども、学生の年ようやく長じて、その上級に達する者へは、哲学・法学の大意、または政治・経済の書をも研究せしむるという。
 そもそも義塾の生徒、その年長ずるというも、二十歳前後にして、二十五歳以上の者は稀なるべし。概してこれを弱冠《じゃっかん》の年齢といわざるをえず。たとい天稟《てんぴん》の才あるも、社会人事の経験に乏しきは、むろんにして、いわば無勘弁の少年と評するも不当に非ざるべし。この少年をして政治・経済の書を読ましむるは危険に非ずや。政治・経済、もとよりその学を非なりというに非ざれども、これを読みて世の安寧を助くると、これを妨ぐるとは、その人に存するのみ。
 余輩の所見にては、弱冠の生徒にしてこれらの学につくは、なお早しといわざるをえず。その危険は小児をして利刀を弄《ろう》せしむるに異ならざるべし。いわんや近来は世上に政談流行して、物論はなはだ喧《かしま》しき時節なるにおいてをや。人の子を教うるの学塾にして、かえって、これを傷《そこな》うの憂いなきを期すべからず、云々と。
 我が輩、この忠告の言を案ずるに、ある人の所見において、つまり政治経済学の有用なるは明らかなれども、これを学びて世を害すると否とは、その人に存す。弱冠《じゃっかん》の書生は、多くは無勘弁にして、その人に非ずということならん。この言、まことに是《ぜ》なり。
 事物につき是非判断の勘弁なくして、これを取扱うときは、必ず益なくして害をいたすべきや明らかなり。馬を撰ばずして、みだりに乗れば落つることあり。食物を撰ばずしてみだりに食《くら》えば毒にあたることあり。判断の明《めい》、まことに大切なることなれども、ただこれを大切なりというのみにては、未だもって議論のつきたるものに非ず。ゆえに今この問題に付ては、人にしてこの明識を有すると有せざるとの原因はいかん、これを養うの方法はいかにして可ならんとて、その原因を尋ね、その方法を求めて、はじめて議論の局を結ぶべきなり。
 およそ物の有害無害を知らんとするには、まずその性質を知ること緊要なり。その性質を知らんとするには、まずその物を見ること緊要なり。熱国の人民は氷を見たることなし。ゆえにその性質を知らず。これを知らざるがゆえに、その働の有害なるか無害なるかを知らざるなり。また、人の天然において奇異を好むは、その性なり。山国の人は海を見て悦《よろこ》び、海辺の人は山を見て楽しむ。生来、その耳目に慣れずして奇異なればなり。而《しこう》してそのこれを悦び、これを楽しむの情は、その慣れざるのはなはだしきにしたがってますます切《せつ》にして、往々判断の明識を失う者多し。仏蘭西の南部は葡萄の名所にして酒に富む。而してその本部の人民にははなはだしき酒客を見ざれども、酒に乏しき北部の人が、南部に遊び、またこれに移住するときは、葡萄の美酒に惑溺して自からこれを禁ずるを知らず、ついにその財産生命をもあわせて失う者ありという。
 また日本にては、貧家の子が菓子屋に奉公したる初には、甘《かん》をなめて自から禁ずるを知らず、ただこれを随意に任してその飽くを待つの外に術《すべ》なしという。また東京にて花柳に戯れ遊冶《ゆうや》にふけり、放蕩無頼の極に達する者は、古来東京に生れたる者に少なくして、必ず田舎漢《いなかもの》に多し。しかも田舎にて昔なれば藩士の律儀《りちぎ》なる者か、今なれば豪家の秘蔵息子にして、生来浮世の空気に触るること少なき者に限るが如し。これらの例をかぞうれば枚挙にいとまあらず。あまねく人の知るところにして、いずれも皆人生奇異を好みて明識を失うの事実を証するに足るべし。
 ゆえに、子女の養育に注意する人は、そのようやく長ずるにしたがって次第に世間の人事にあたらしむるの要用なるを知り、あるいは飲酒といい演劇といい、謹慎着実なる父母の目には面白からぬ事ながら、とうていこれを禁ずべきに非ざれば、この好むところに任して、酒をも飲ましめ、演劇の見物をも許して、ただこれを節するの緊要なるを知らしむるのみ。ある西人《せいじん》の説に、子女ようやく長じたらば、酒を飲むも演劇を見物するも、初はまず父母とともにして、次第に独歩の自由を許すべしという者あり。この説、はなはだあたるが如し。
 右に述ぶる事実、はたして違《たが》うことなくば、ある人の憂慮する少年書生の無勘弁なる者を導きて、これに勘弁の力を附与し、その判断の識を明らかならしむるの法、いかんして可ならん。身を終るまでこれを束縛して、
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