これを詭激に導くの助けをなし、目的の齟齬《そご》する、これよりはなはだしきはなし。ひっきょう、社会は活世界《かっせかい》にして、学校に教うる者も活物《いきもの》なれば、学ぶ者もまた活物なり。この活物の運動は、親子の間柄にてもなおかつ自由ならざるものあり。いわんや他人の子を教うるにおいてをや。決して意の如くなるべからざるなり。
学校の教育は、決して教者の意の如くなるべきものに非ず。すでに不如意なるを知らば、その不如意に処するの法を案ずるこそ緊要なれ。前にいえる如く、少年輩がややもすれば経世の議論を吐き、あるいは流行の政談に奔走して、無益に心身を労し、はなはだしきは国安妨害の弊に陥るが如きは、元《も》とその輩の無勘弁なるがためなり。その無勘弁の原因は何ぞや。真成の経世論を知らざるがためなり。詭激の経世論、もとより厭《いと》うべしといえども、その論者はこれを知るがゆえに論ずるに非ず、知らざるがゆえにこれを論ずるのみ。
ゆえに我が慶応義塾においては、上等の生徒に哲学・法学あるいは政治・経済の書を禁ぜざるは、これを禁ぜずして、その真成の理を解せしめ、是非判断の識を明らかならしめんがためなり。多年の実験によってこれを案ずるに、書を読むこといよいよ深き者は、いよいよ沈黙するが如し。而《しこう》してその黙するや、これをいうを忘れたるに非ず、時あっていうときは、その言も亦《また》適切にして、忌憚《きたん》するところなきがゆえに、時としては俗耳を驚かすことなきに非ざれども、これはただ聴者不学の罪のみ。その適例は近きにあり。
近来世上に民権の議論しきりにかしましくして、外国にも先例なきが如きそのゆえんは何ぞや。今の民権論者は近来はじめてこれらの論旨を聞き得て、その奇異に驚き、これに驚き、これに動揺して、あたかも聾盲の耳目を開きたるが如きものなればなり。もとよりその論者中には、多年の苦学勉強をもって、内に知識を蔵《おさ》め、広く世上の形勢を察して、大いに奮発する者なきに非ず。
我が輩、その人を知らざるに非ずといえども、概してこれを評すれば、今の民権論の特にかしましきは、とくに不学者流の多きがゆえなりといわざるをえず。実際には行われ難き事なれども、もしも諸方に行わるる政談演説を聴きて、その論勢の寛猛粗密を統計表につくりて見るべきものならば、そのいよいよ粗暴にして言論の無稽なる割合にし
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