丸出しにして実地の用に適せしめんとするも、浮世のように行わるべからざるは明白なる時勢とも心付かずして、我が国人は教育の熱心自から禁ずること能わず、次第次第に高きを勉めて止まるを知らず、俗世界はいぜんとして卑《ひく》く、教育法はますます高く、学校はあたかも塵俗外《じんぞくがい》の仙境にして、この境内に閉居就学すること幾年なれば、その年月の長きほどにますます人間世界の事を忘却して、ひそかにこれを軽蔑するがゆえに、浮世の人もまた学者とともに語るを厭《いと》い、工業にも商売にもこれとともに事をともにせんとするものとては一人もなく、ただ学者と聞けば例の仙人なりと認めて、ただ外面にこれを尊敬するの風を装い、「敬してこれを遠ざくる」のみなれば、学者もまたこれに近づくを屑《いさぎよし》とせず、さりとて俗を破りて独立の事業をくわだつるの気力もなく、まずその身に慣れたる学校世界に引籠りて人を教うる業につく、すなわち学校の教育により学校の教員を生ずること多きゆえんにして、したがって教えられて、したがって教員となり、際限あることなし。
ひっきょうするに、数年来、世の教育家なる者が、学問を尊び俗世界を賤しむこと、両様ともにはなはだしきにすぎ、高尚至極なる学問の型の中に無理に凡俗を包羅《ほうら》して、新奇の形を鋳冶《ちゅうや》せんとして、かえってその凡俗を容るることはできずして、大切なる教育を孤立せしめ、自から偏窟に陥りたるものといわざるをえず。自今以後とても、教育家がこの辺に心付かずして、ただ教育法の高尚なるを求め、国民の智徳の高さと文明の学理の高さと、ほぼ相《あい》当《あた》らしむべきの要を知らずして、今のままの方向に進みたらんには、国中ますます教師を生ずるのみにして、実業につく者なく、はじめにいえる如く、蚕を養うて蚕卵を生じ、その卵を孵化してまた卵を生じ、ついに養蚕の目的たる糸を見ざるに等しきの奇観を呈することあるべし。
我が慶応義塾の教育法は、学生諸氏もすでに知る如く、創立のその時より実学を勉め、西洋文明の学問を主として、その真理原則を重んずることはなはだしく、この点においては一毫《いちごう》の猶予《ゆうよ》を仮《か》さず、無理無則、これ我が敵なりとて、あたかも天下の公衆を相手に取りて憚《はばか》るところなく、古学主義の生存するところを許さざるほどに戦う者なりといえども、また一方より見れば、学問教育を軽蔑することもまた、はなはだし。
けだしそのこれを軽蔑するとは、学理を妄談なりとして侮《あなど》るに非ず、ただこれを手軽にみなして、いかなる俗世界の些末事《さまつじ》に関しても、学理の入るべからざるところはあるべからずとの旨を主張し、内にありては人生の一身一家の世帯より、外に出ては人間の交際、工商の事業にいたるまで、事の大小遠近の別なく、一切万事、我が学問の領分中に包羅《ほうら》して、学事と俗事と連絡を容易にするの意なり。語をかえていえば、学問を神聖に取扱わずして、通俗の便宜に利用するの義なり。
ゆえに本塾の教育は、まず文学を主として、日本の文字文章を奨励し、字を知るためには漢書をも用い、学問の本体はすなわち英学にして、英字、英語、英文を教え、物理学の普通より、数学、地理、歴史、簿記法、商法律、経済学等に終り、なお英書の難文を読むの修業として、時としては高尚至極の原書を講ずることもあり。また道徳の課にいたりては、特別に何主義を限らず、ただ教師朋友相互の責善《せきぜん》談話をもって根本となし、その読むところの書は人々の随意に任じ、嘉言善行の実をしておのずから塾窓の中に盛ならしむるを勉むるのみ。
かくの如くして多年の成跡を見るに、幾百の生徒中、時にあるいは不行状の者なきに非ずといえども、他の公私諸学校の生徒に比して、我が慶応義塾の生徒は徳義の薄き者に非ず、否《い》なその品行の方正謹直にして、世事に政談にもっとも着実の名を博し、塾中、つねに静謐《せいひつ》なるは、あるいは他に比類を見ること稀《まれ》なるべし。
明治十九の歳華《さいか》すでに改まりて、慶応義塾の教育法は大いに改まるに非ずといえども、一陽来復とともにこの旧教育法に新鮮の生気をあたうるはまたおのずから要用なるべし。その生気とは何ぞや。本塾の実学をしてますます実ならしめ、細大|洩《も》らさず、すべて実際の知見を奨励し、満塾の学生をして即身《そくしん》実業の人とならしめ、かの養蚕の卵より卵を生ずるに等しく、本塾に卒業したる者がただわずかに学校の教師となるか、または役人となりて、孤児・寡婦の生計を学ぶなどいう無気無腸のそしりを免かれ、独立男子の名にはずることなからしむるの工風なり。
従来、本塾出身の学士が、善く人事に処して迂闊《うかつ》ならずとのことは、つねに世に称せらるるところなれども
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング