京都学校の記
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)訪《と》う

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明治五年|申《さる》五月|朔日《ついたち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]福沢諭吉記
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 明治五年|申《さる》五月|朔日《ついたち》、社友|早矢仕《はやし》氏とともに京都にいたり、名所旧跡はもとよりこれを訪《と》うに暇《いとま》あらず、博覧会の見物ももと余輩《よはい》上京の趣意にあらず、まず府下の学校を一覧せんとて、知る人に案内を乞い、諸処の学校に行きしに、その待遇きわめて厚く、塾舎・講堂、残るところなく見るを得たり。よって今、その所見の大略を記して、天下同志の人にしめすこと左の如し。
 京都の学校は明治二年より基《もとい》を開きしものにて、目今《もっこん》、中学校と名《なづく》る者四所、小学校と名るもの六十四所あり。
 市中を六十四区に分て学校の区分となせしは、かの西洋にていわゆるスクールヂストリックトならん。この一区に一所の小学校を設け、区内の貧富貴賤を問わず、男女生れて七、
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