学問の独立
福沢諭吉
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『学問の独立』緒言
近年、我が日本において、都鄙《とひ》上下の別なく、学問の流行すること、古来、未だその比を見ず。実に文運降盛の秋《とき》と称すべし。然るに、時運の然らしむるところ、人民、字を知るとともに大いに政治の思想を喚起して、世事《せいじ》ようやく繁多なるに際し、政治家の一挙一動のために、併せて天下の学問を左右進退せんとするの勢なきに非ず。実に国のために歎ずるに堪えずとて、福沢先生一篇の論文を立案し、中上川《なかみがわ》先生これを筆記し、「学問と政治と分離すべし」と題して、連日の『時事新報』社説に登録したるが、大いに学者ならびに政治家の注意を惹《ひ》き来りて、目下正に世論実際の一問題となれり。よって今、論者諸賢のため全篇通読の便利を計り、これを重刊して一冊子となすという。
明治一六年二月[#地から2字上げ]編者識
[#改ページ]
学問の独立
学問も政治も、その目的を尋ぬれば、ともに一国の幸福を増進せんとするものより外ならずといえども、学問は政治に非ずして、学者は政治家に異なり。けだしその異なるゆえんは何ぞや。学者の事は社会今日の実際に遠くして、政治家の働は日常人事の衝《しょう》にあたるものなればなり。これをたとえば、一国はなお一人の身体の如くにして、学者と政治家と相ともにこれを守り、政治家は病にあたりて治療に力を用い、学者は平生の摂生法を授くる者の如し。開闢《かいびゃく》以来今にいたるまで、智徳ともに不完全なる人間社会は、一人の身体いずれの部分か必ず痛所《いたみどころ》あるものに異ならず。治療に任ずる政治家の繁忙なる、もとより知るべし。然るに学者が平生より養生の法を説きて社会を警《いまし》むることあれば、あるいはその病《やまい》を未発に防ぎ、あるいはたとい発病に及ぶも、大病にいたらずして癒《いゆ》るを得べし。すなわち間接の働にして、学問の力もまた大なりというべし。
過日、『時事新報』の社説にもいえる如く(一月一一日社説)、我が開国の初め攘夷論の盛なる時にあたりても、洋学者流が平生より西洋諸国の事情を説きて、あたかも日本人に開国の養生法を授けたるに非ずんば、我が日本は鎖国攘夷病に斃《たお》れたるやも計るべからず。学問の効力、その洪大《こうだい》なることかくの如しといえども、その学者をしてただちに今日の事にあたらしめんとするも、あるいは実際の用をなさざること、世界古今の例に少なからず。摂生学《せっせいがく》専門の医師にして当病の治療に活溌ならざるものと一様の道理ならん。
されば、学問と政治とはまったくこれを分離して相互に混同するを得せしめざること、社会全面の便利にして、その双方の本人のためにもまた幸福ならん。西洋諸国にても、執政の人が文学の差図して世の害をなし、有名なる碩学《せきがく》が政壇に上りて人に笑われたるの例もあり。また、我が封建の諸藩において、老儒先生を重役に登用して何等の用もなさず、かえって藩土のために不都合を起して、その先生もついに身を喪《ほろぼ》したるもの少なからず。ひっきょう、摂生法と治療法と相混じたるの罪というべきものなり。
学問と政治と分離すること、国のためにはたして大切なるものなりとせば、我が輩は、今の日本の政治より今の日本の学問を分離せしめんことを祈る者なり。すなわち文部省及び工部省直轄の学校を、本省より離別することなり。そもそも維新の初には百事|皆《みな》創業にかかり、これは官に支配すべき事、それは私《し》に属すべきものと、明らかに分界を論ずる者さえなくして、新規の事業は一切政府に帰し、工商の細事にいたるまでも政府より手を出だすの有様なれば、学校の政府に属すべきはむろんにして、すなわち文部・工部にも学校を設立したるゆえんなれども、今や十六年間の政事《せいじ》、次第に整頓するの日にあたりて、内外の事情を照し合せ、欧米文明国の事実を参考すれば、我が日本国において、政府がただちに学校を開設して生徒を集め、行政の官省にてただちにこれを支配して、その官省の吏人たる学者がこれを教授するとは、外国の例にもはなはだ稀《まれ》にして、今日の時勢に少しく不都合なるが如し。
もとより学問の事なれば、行政官の学校に学ぶも、またいずれの学問所に学ぶも同様なるべきに似たれども、政治社会の実際において然らざるものあり。けだし国の政事は、前にもいえる如く、今日の人事にあたりて臨機応変の処分あるべきものにして、たとえば饑饉には救恤《きゅうじゅつ》の備えをなし、外患《がいかん》には兵馬を用意し、紙幣下落すれば金銀貨を求め、貿易の盛衰をみては関税を上下する等、俗言これを評すれば掛引《かけひき》の忙わしきものなるがゆえに、もしも国の学校を行政の部内に入るるときは、その学風もまた、おのずからこの掛引のために左右せらるるなきを期すべからず。掛引は日夜の臨機応変にして、政略上にもっとも大切なる部分なれば、政治家の常に怠るべからざる事なれども、学問は一日一夜の学問に非ず、容易に変易すべからざるなり。
もとより今の文部省の学制とても、決して政治に関係するに非ず。その学校の教則の如き、我が輩の見るところにおいて大なる異論あるなし。徳育を重んじ智育を貴び、その術学、たいがい皆、西洋文明の元素にとりて、体育養生の法にいたるまでも遺すところなきは、美なりというべしといえども、いかんせん、この美なる学制を施行する者が、行政官の吏人たるのみならず、ただちに生徒に接して教授する者もまた吏人にして、かつ学校教場の細事務と一般の気風とは学則中に記すべきにも非ざれば、その気風精神のよりて生ずる源《みなもと》は、これを目下の行政上にとらざるをえず。而《しこう》してその行政なるものは、全体の性質において遠年に持続すべきものに非ず。また、持続してよろしからざるものなれば、政治の針路の変化するにしたがいて、学校の気風精神もまた変化せざるをえず。学問の本色《ほんしょく》に背《そむ》くものというべし。
これを要するに、政治は活溌にして動くものなり、学問は沈深にして静なるものなり。静者をして動者と歩をともにせしめんとす、その際に幣を見るなからんとするも得べからず。たとえば、青年の学生にして漫《みだり》に政治を談じ、または政談の新聞紙等を読みて世間に喋々《ちょうちょう》するは、我が輩も好まざるところにして、これをとどむるはすなわち静者をして静ならしめ、学者のために学者の本色を得せしめんとするの趣意なれども、もしもこれをとどむる者が行政官吏の手より出ずるときは、学者のためにするにかねてまた、行政の便利のためにするの嫌疑なきを得ず。
然るに行政の性質はもっとも活溌にして、随時に変化すべきがゆえに、一時、静を命ずるも、また時として動を勧むるなきを期すべからず。あるいは他の動者に反対して静を守るの極端は、己《おの》れ自から静の境界をこえて、反動の態《てい》に移るなきを期すべからず。ひっきょう、学問と政治と相密着するの余弊ならん。我が輩がその分離を祈るゆえんなり。
学問と政治と密着せしむるの不利は、ひとり我が輩の発明に非ず。古来、我が日本国において、その理由趣旨を明言したる者こそなけれども、実際においてその趣旨の行われたるは不思議なりというべし。往古の事はしばらくさしおき、徳川の時代において中央政府はむろん、三百藩にも儒臣なる者を置き、子弟の教育を司るの慣行にして、これを尊敬せざるには非ず、藩主なおかつ儒臣に対しては師と称するほどのことにして、栄誉少なからずといえども、そのこれを尊ぶや、ただ学問上に限るのみにして、政治に関してはかつて儒臣の喙《くちばし》をいれしめず、はなはだしきはこれを長袖《ちょうしゅう》の身分と称して、神官、僧侶、医師の輩と同一視して、政庁に入れざるのみならず、他士族と歯《よわい》するを許さざるの風なりき。
徳川の儒臣|林大学頭《はやしだいがくのかみ》は、世々《よよ》大学頭にして、その身分は、老中《ろうじゅう》、若年寄の次にして旗下の上席なれども、徳川の施政上に釐毫《りごう》の権力を持たず、あるいは国家の大事にあたりては、大政府より諮詢《しじゅん》のこともあれども、ただ顧問にとどまるのみ。けだしその然《しか》るゆえんは、武人の政府、文を軽んずるの幣などとて、嘆息する者もありしかども、我が輩の所見はまったくこれに反し、政府の文武にかかわらず、子弟の教育を司る学者をして政事に参与せしむるは国の大害にして、徳川の制度・慣行こそ当《とう》を得たるものと信ずるなり。
当時もしも大学頭をして実際の行政官たらしめんか、林家《りんけ》の党類はなはだ多くして、いずれも論説には富む者なれば、政府の中にたちまち林家の一政党をなし、而《しこう》してその党類の力、よく全国を圧倒するには足らずして、かえって反対の敵を生じ、林家支配の官立学校にて政談の主義はかくの如し、これを実際に施したる政府の針路は云々と称すれば、都下の家塾はむろん、地方にも藩立・私立の学校も盛なれば、あるいは林家に従属し、あるいはこれに反対し、学問の談論よりただちに政治の主義に推《お》し及ぼして、ただに中央政府中の不和のみならず、あるいは全国の変乱にいたるも計るべからざりしに、徳川政府の始終、かつてその弊害を見ざりしは、ひっきょうするに、教育の学者をして常に政治社外にあらしめたるの功徳《こうとく》といわざるをえざるなり。
人、あるいはいわく、学問と政治とはもとより異なり、異なるがゆえに、学問所に政談を禁じて、多く政治の書を読ましめざるなり、その制法・規則さえ定まれば、二者の分界明白にして人を誤ることなし、との説あれども、ただ説にいうべくして、教育の実際に行わるべからざるの言なり。たとい、いかなる法則を設けて学問所を検束するも、いやしくもその教育を支配する学頭にして行政部内の人なれば、教育を受くる学生を禁じて政治の心なからしめんとするは、難易を問わずしてまずそのよくすべからざるを知るべし。
あるいは生徒を教訓警戒して、政談に喋々するなかれ、世上に何々を談ずる者あり、何々に熱心する者あり、はなはだ心得違《こころえちがい》なればこれにならうなかれと禁ずれば、その禁止の言葉の中におのずから他の党派に反対してこれを嫌忌《けんき》するの意味を含有するがゆえに、たといこれを禁じ了《おわ》るも、その学生の一類は、かの禁止の言中、おのずから政治の意味あるを知る者なれば、ただ口にこそ政《まつりごと》を談ぜざれども、その成跡《せいせき》はあたかも政談を談ぜざるの政党たるべきのみ。
元来政治の主義・針路を殊にするは、異宗旨の如きものにして、たとえば今、法華宗《ほっけしゅう》の僧侶が衆人に向いて、念仏を唱うるなかれというのみにて、あえて自家の題目を唱えよと勧むるには非ざるも、その念仏を禁ずるの際に、法華宗に教化《きょうげ》せんとするの意味は十分に見るべきが如し。結局、学校の生徒をして政治社外に教育せんとするには、その首領なる者が、真実に行政の外にありて、中心より無偏・無党なるに非ざれば、かなわざることと知るべし。真実に念仏を禁じて仏法の念なからしめんと欲せば、念仏も禁じ題目も禁ずるか、または念仏も題目も、ともに嫌忌《けんき》せずして勝手に唱えしめ、ただ一身の自家宗教を信ぜずして、これを放却《ほうきゃく》するの外に方略あるべからず。
首領の心事と地位と、実に偏党なきにおいては、その学校に何の書を読み何事を談ずるも、なんらの害をもなさざるのみならず、学問の本色において、社会の現事に拘泥《こうでい》すること
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