わしくし、あるいは勤王《きんのう》といい、また佐幕《さばく》と称し、学者の身をもって政治家の事を行わんとしたるの罪なり。
 当時もしこの開成校をして幕府の政権を離れ、政治社外に逍遥《しょうよう》して真実に無偏・無党の独立学校ならしめ、その教員等をして真実に豪胆独立の学者ならしめなば、東征の騒乱、何ぞ恐るるに足らんや。弾丸雨飛の下《もと》にも、※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]唔《いご》の声を断たずして、学問の命脈を持続すべきはずなりしに、学校組織の不完全なると学者輩の無気力なるとにより、ついに然るを得ずして、見るに忍びざるの醜体を呈し、維新の後、ようやく文部省の設立に逢うて、辛《かろ》うじて日本の学問を蘇生せしめ、その際に前後数年を空《むな》しゅうしたるは、学問の一大不幸なりと断言して可なり。もとより今の政府は旧幕府に異なり、騒乱再来すべきに非ざるは無論なれども、政治と学問と附着して不利なるは、政《まつりごと》の良否にかかわらず、古今|欺《あざむ》くべからざるの事実と知るべし。
 また、維新の初に、神道なるものは日本社会のためにいかなる事をなしたるかを見よ。その功徳《こうとく》未だ現われずして、まず廃仏の議論を生じ、その成跡《せいせき》は神仏同居を禁じ、僧侶の生活を苦しめ、信者の心を傷ましめ、全国神社・仏閣の勝景美観を破壊して、今日の殺風景をいたしたるのみ。そもそも神道なるものは、我が輩の知らざるところなれども、一種の学問ならんのみ。
 いやしくも学問とあれば、おのずから主義の見るべきものあるは無論なるがゆえに、その学問の主義をもって他の学流と競争するも可なり、相互に敵視するも可なり。政治に密着せざる間は、ただその学流自然の力に任して、おのずから強弱の帰するところあるべきはずなるに、王政維新の際において、大いに政府に近づき、その政権に依頼したるがために、とみに活動をたくましゅうし、その学問に不相当なる大変動を生じて、日本国の全面に波及したるは、これまた学問と政治と附着したるの弊害というべし。
 右等は維新前後の大事変なれども、大変の時勢はしばらくさしおき、平時といえども、世の政談の熱度、次第に増進すれば、その気はおのずから学校に波及して、校中多少の熱を催おすべきは、自然の勢においてまぬかれ難きことならん。全国の学校を行政官に支配し、また行政官の手をもってその教
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