んの心配もあることなし。
 ただ一つの心配は己が預かりの帳面に筆の働きをもって極内《ごくない》の仕事を行なわんとするの一事のみ。鷲《わし》に等しき旦那の眼力もそれまでには及び兼ね、律儀一偏の忠助と思いのほかに、駆落《かけお》ちかまたは頓死のその跡にて帳面を改むれば、洞《ほら》のごとき大穴をあけ、はじめて人物の頼み難きを歎息するのみ。されどもこは人物の頼み難きにあらず、専制の頼み難きなり。旦那と忠助とは赤の他人の大人にあらずや。その忠助に商売の割合をば約束もせずして、子供のごとくにこれを扱わんとせしは旦那の不了簡《ふりょうけん》と言うべきなり。
 右のごとく上下貴賤の名分を正し、ただその名のみを主張して専制の権を行なわんとするの原因よりして、その毒の吹き出すところは人間に流行する欺詐《ぎさ》術策の容体なり。この病に罹《かか》る者を偽君子と名づく。譬《たと》えば封建の世に大名の家来は表向きみな忠臣のつもりにて、その形を見れば君臣上下の名分を正し、辞儀をするにも敷居《しきい》一筋の内外《うちそと》を争い、亡君の逮夜《たいや》には精進《しょうじん》を守り、若殿の誕生には上下《かみしも》を着し、
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