《いや》しきものと言わざるを得ず。人の品行少しく進むときはこれらの醜談はすでにすでに経過し了して、言に発するも人に厭《いと》わるるに至るべきはずなり。
 方今日本にて学校を評するに、「この学校の風俗はかくのごとし。かの学塾の取締りは云々」とて、世の父兄はもっぱらこの風俗取締りの事に心配せり。そもそも風俗取締りとはなんらの箇条をさして言うか。塾法厳にして生徒の放蕩無頼を防ぐにつき、取締りの行き届きたることを言うならん。これを学問所の美事と称すべきか。余輩はかえってこれを羞《は》ずるなり。西洋諸国の風俗けっして美なるにあらず、あるいはその醜見るに忍びざるもの多しといえども、その国の学校を評するに、風俗の正しきと取締りの行き届きたるとのみによりて名誉を得るものあるを聞かず。
 学校の名誉は学科の高尚なると、その教法の巧みなると、その人物の品行高くして、議論の賤しからざるとによるのみ。ゆえに今の学校を支配して今の学校に学ぶ者は、他の賤しき学校に比較せずして、世界中上流の学校を見て得失を弁ぜざるべからず。風俗の美にして取締りの行き届きたるも学校の一得と言うべしといえども、その得は学校たるもののもっとも賤しむべき部分の得なれば、毫《ごう》もこれを誇るに足らず。上流の学校に比較せんとするには別に勉むるところなかるべからず。ゆえに学校の急務としていわゆる取締りの事を談ずるの間は、たといその取締りはよく行き届くも、けっしてその有様に満足すべからざるなり。
 一国の有様をもって論ずるもまたかくのごとし。譬《たと》えばここに一政府あらん。賢良方正の士を挙げて政《まつりごと》を任し、民の苦楽を察して適宜の処置を施し、信賞必罰、恩威行なわれざるところなく、万民腹を鼓して太平を謡うがごときは、まことに誇るべきに似たり。然りといえども、その賞罰と言い、恩威といい、万民といい、太平というも、悉皆《しっかい》一国内の事なり、一人あるいは数人の意に成りたるものなり。その得失はその国の前代に比較するか、または他の悪政府に比較して誇るべきのみにて、けっしてその国悉皆の有様を詳《つまび》らかにして他国と相対し、一より十に至るまで比較したるものにあらず。もし一国を全体の一物とみなして他の文明の一国に比較し、数十年の間に行なわるる双方の得失を察して互いに加減乗除し、その実際に見《あら》われたるところの損益を論ずることあらば、その誇るところのものはけっして誇るに足らざるものならん。
 譬えばインドの国体旧ならざるにあらず、その文物の開けたるは西洋紀元の前数千年にありて、理論の精密にして玄妙なるは、おそらくは今の西洋諸国の理学に比して恥ずるなきもの多かるべし。また在昔トルコの政府も、威権もっとも強盛にして、礼楽征伐の法、斉整ならざるはなし。君長賢明ならざるにあらず、廷臣方正ならざるにあらず。人口の衆多なること兵士の武勇なること近国に比類なくして、一時はその名誉を四方に燿《かがや》かしたることあり。ゆえにインドとトルコとを評すれば、甲は有名の文国にして、乙は武勇の大国と言わざるを得ず。
 しかるに方今この二大国の有様を見るに、インドはすでに英国の所領に帰してその人民は英政府の奴隷に異ならず、今のインド人の業はただ阿片を作りて支那人を毒殺し、ひとり英商をしてその間に毒薬売買の利を得せしむるのみ。トルコの政府も名は独立と言うといえども、商売の権は英仏の人に占められ、自由貿易の功徳《くどく》をもって国の物産は日に衰微し、機《はた》を織る者もなく、器械を製する者もなく、額に汗して土地を耕すか、または手を袖にしていたずらに日月を消するのみにて、いっさいの製作品は英仏の輸入を仰ぎ、また国の経済を治むるに由なく、さすがに武勇なる兵士も貧乏に制せられて用をなさずと言う。
 右のごとく、インドの文も、トルコの武も、かつてその国の文明に益せざるはなんぞや。その人民の所見わずかに一国内にとどまり、自国の有様に満足し、その有様の一部分をもって他国に比較し、その間に優劣なきを見てこれに欺かれ、議論もここに止まり、徒党もここに止まり、勝敗栄辱ともに他の有様の全体を目的とすることを知らずして、万民太平を謡うか、または兄弟《けいてい》墻《かき》に鬩《せめ》ぐのその間に、商売の権威に圧しられて国を失うたるものなり。洋商の向かうところはアジヤに敵なし。恐れざるべからず。もしこの勁敵《けいてき》を恐れて、兼ねてまたその国の文明を慕うことあらば、よく内外の有様を比較して勉むるところなかるべからず。
[#改段]

 十三編



   怨望の人間に害あるを論ず

 およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望《えんぼう》より大なるはなし。貪吝《たんりん》、奢侈《しゃし》、誹謗《ひぼう》の類はいずれも
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