らず、人に向かいて言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽くしてはじめて学問を勉強する人と言うべし。すなわち視察、推究、読書はもって智見を集め、談話はもって智見を交易し、著書、演説はもって智見を散ずるの術なり。然りしこうしてこの諸術のうちに、あるいは一人の私《わたくし》をもって能《よ》くすべきものありといえども、談話と演説とに至りては必ずしも人とともにせざるを得ず。演説会の要用なることもって知るべきなり。
 方今わが国民においてもっとも憂うべきはその見識の賤《いや》しきことなり。これを導きて高尚の域に進めんとするはもとより今の学者の職分なれば、いやしくもその方便あるを知らば力を尽くしてこれに従事せざるべからず。しかるに学問の道において、談話、演説の大切なるはすでに明白にして、今日これを実に行なう者なきはなんぞや。学者の懶惰《らんだ》と言うべし。人間の事には内外両様の別ありて、両《ふたつ》ながらこれを勉めざるべからず。今の学者は内の一方に身を委《まか》して、外の務めを知らざる者多し。これを思わざるべからず。私に沈深なるは淵《ふち》のごとく、人に接して活発なるは飛鳥のごとく、その密なるや内なきがごとく、その豪大なるや外なきがごとくして、はじめて真の学者と称すべきなり。

   人の品行は高尚ならざるべからざるの論

 前条に「方今わが国においてもっとも憂うべきは人民の見識いまだ高尚ならざるの一事なり」と言えり。人の見識品行は、微妙なる理を談ずるのみにて高尚なるべきにあらず。禅家に悟道などの事ありて、その理すこぶる玄妙なる由なれども、その僧侶の所業を見れば、迂遠にして用に適せず、事実においては漠然としてなんらの見識もなき者に等し。
 また人の見識、品行はただ聞見の博《ひろ》きのみにて高尚なるべきにあらず。万巻の書を読み、天下の人に交わり、なお一己《いっこ》の定見なき者あり。古習を墨守する漢儒者のごときこれなり。ただ儒者のみならず、洋学者といえどもこの弊を免れず。いま西洋日新の学に志し、あるいは経済書を読み、あるいは修身論を講じ、あるいは理学、あるいは智学、日夜精神を学問に委《ゆだ》ねて、その状あたかも荊棘《けいきょく》の上に坐《ざ》して刺衝《ししょう》に堪ゆべからざるのはずなるに、その人の私につきてこれを見ればけっして然らず、眼に経済書を見て一家の産を営むを知らず、口に修身論を講じて一身の徳を修むるを知らず、その所論とその所行とを比較するときは、まさしく二個の人あるがごとくして、さらに一定の見識あるを見ず。
 畢竟《ひっきょう》この輩の学者といえども、その口に講じ、眼に見るところの事をばあえて非となすにはあらざれども、事物の是《ぜ》を是とするの心と、その是を是としてこれを事実に行なうの心とは、まったく別のものにて、この二つの心なるものあるいは並び行なわるることあり、あるいは並び行なわれざることあり。「医師の不養生」といい、「論語読みの論語知らず」という諺《ことわざ》もこれらの謂《いい》ならん。ゆえにいわく、人の見識、品行は玄理を談じて高尚なるべきにあらず、また聞見を博くするのみにて、高尚なるべきにあらざるなり。
 しからばすなわち、人の見識を高尚にして、その品行を提起するの法いかがすべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、みずから満足することなきの一事にあり。ただし有様を比較するとはただ一事一物を比較するにあらず、この一体の有様と、かの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず察せざるべからず。譬《たと》えば今、少年の生徒、酒色に溺《おぼ》るるの沙汰もなくして謹慎勉強すれば、父兄・長老に咎《とが》めらるることなく、あるいは得意の色をなすべきに似たれども、その得色はただ他の無頼生に比較してなすべき得色のみ。謹慎勉強は人類の常なり、これを賞するに足らず、人生の約束は別にまた高きものなかるべからず。広く古今の人物を計《かぞ》え、誰に比較して誰の功業に等しきものをなさばこれに満足すべきや。必ず上流の人物に向かわざるべからず。あるいは我に一得あるも彼に二得あるときは、我はその一得に安んずるの理なし。いわんや後進は先進に優《まさ》るべき約束なれば、古《いにしえ》を空しゅうして比較すべき人物なきにおいてをや。今人《こんじん》の職分は大にして重しと言うべし。
 しかるに今わずかに謹慎勉強の一事をもって人類生涯の事となすべきや。思わざるのはなはだしきものなり。人として酒色に溺るる者はこれを非常の怪物と言うべきのみ。この怪物に比較して満足する者は、これを譬えば双眼を具するをもって得意となし、盲人に向かいて誇るがごとし。いたずらに愚を表するに足るのみ。ゆえに酒色云々の談をなして、あるいはこれを論破し、あるいはこれを是非するの間は、到底諸論の賤
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