子を生ずるの論

 第八編に、上下貴賤の名分《めいぶん》よりして夫婦・親子の間に生じたる弊害の例を示し、「その害の及ぶところはこのほかにもなお多し」との次第を記せり。そもそもこの名分のよって起こるところを案ずるに、その形は強大の力をもって小弱を制するの義に相違なしといえども、その本意は必ずしも悪念より生じたるにあらず。畢竟《ひっきょう》世の中の人をば悉皆《しっかい》愚にして善なるものと思い、これを救い、これを導き、これを教え、これを助け、ひたすら目上の人の命《めい》に従いて、かりそめにも自分の了簡を出ださしめず、目上の人はたいてい自分に覚えたる手心にて、よきように取り計らい、一国の政事も、一村の支配も、店の始末も、家の世帯も、上下心を一にして、あたかも世の中の人間交際を親子の間柄のごとくになさんとする趣意なり。
 譬《たと》えば十歳前後の子供を取り扱うには、もとよりその了簡を出ださしむべきにあらず、たいてい両親の見計らいにて衣食を与え、子供はただ親の言に戻《もと》らずしてその指図《さしず》にさえ従えば、寒き時にはちょうど綿入れの用意あり、腹のへる時にはすでに飯の支度ととのい、飯と着物はあたかも天より降り来たるがごとく、わが思う時刻にその物を得て、何一つの不自由なく安心して家に居《お》るべし。両親は己《おの》が身にも易《か》えられぬ愛子なれば、これを教え、これを諭し、これを誉《ほ》むるも、これを叱るも、みな真の愛情より出でざるはなく、親子の間一体のごとくして、その快きこと譬えん方なし。すなわちこれ親子の交際にして、その際には上下の名分も立ち、かつて差しつかえあることなし。世の名分を主張する人はこの親子の交際をそのまま人間の交際に写し取らんとする考えにて、ずいぶん面白き工夫のようなれども、ここに大なる差しつかえあり。親子の交際はただ智力の熟したる実の父母と十歳ばかりの実の子供との間に行なわるべきのみ。他人の子供に対してはもとより叶《かな》い難し。たとい実の子供にても、もはや二十歳以上に至ればしだいにその趣を改めざるを得ず。いわんや年すでに長じて大人《おとな》となりたる他人と他人との間においてをや。とてもこの流儀にて交際の行なわるべき理なし。いわゆる願うべくして行なわれ難きものとはこのことなり。
 さて今、一国と言い、一村と言い、政府と言い、会社と言い、すべて人間の交際と名づくるものはみな大人と大人との仲間なり。他人と他人との付合いなり。この仲間付合いに実の親子の流儀を用いんとするもまた難きにあらずや。されども、たとい実には行なわれ難きことにても、これを行のうてきわめて都合よからんと心に想像するものは、その想像を実に施したく思うもまた人情の常にて、すなわちこれ世に名分なるものの起こりて専制の行なわるる所以なり。ゆえにいわく、名分の本《もと》は悪念より生じたるにあらず、想像によりてしいて造りたるものなり。
 アジヤ諸国においては、国君のことを民の父母と言い、人民のことを臣子または赤子《せきし》と言い、政府の仕事を牧民の職と唱えて、支那には地方官のことを何州の牧と名づけたることあり。この牧の字は獣類を養うの義なれば、一州の人民を牛羊のごとくに取り扱うつもりにて、その名目を公然と看板に掛けたるものなり。あまり失礼なる仕方にはあらずや。かく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔《たす》け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直《なお》きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫《ぶ》するに情愛を主とし、饑饉《ききん》には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上《かみ》の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡《なび》くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡《うた》わんとするの目論見《もくろみ》ならん。実に極楽の有様を模写したるがごとし。
 されどもよく事実を考うれば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるにあらず、実に他人の付合いなり。他人と他人との付合いには情実を用ゆべからず、必ず規則約束なるものを作り、互いにこれを守りて厘毛の差を争い、双方ともにかえって円《まる》く治まるものにて、これすなわち国法の起こりし所以なり。かつ右のごとく、聖明の君と賢良の士と柔順なる民とその注文はあれども、いずれの学校に入れば、かく無疵《むきず》なる聖賢を造り出だすべきや、なんらの教育を施せばかく結構なる民を得べきや、唐人も周の世以来しきりにここに心配せしことならんが、今日まで一度も
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