、わが国の工業拙なるがゆえにしばらく銭と交易して用を便ずるものなり。この人を雇いこの品を買うがために金を費やすは、わが学術のいまだ彼に及ばざるがために日本の財貨を外国へ棄つることなり。国のためには惜しむべし。学者の身となりては慚《は》ずべし。かつ人として前途の望みなかるべからず、望みあらざれば世に事を勉むる者なし。明日の幸を望んで今日の不幸をも慰むべし。来年の楽を望んで今年の苦をも忍ぶべし。昔日は世の事物みな旧格に制せられて有志の士といえども望みを養うべき目的なかりしが、今や然らず、この制限を一掃せしより後は、あたかも学者のために新世界を開きしがごとく、天下ところとして事をなすの地位あらざるはなし。
農となり、商となり、学者となり、官員となり、書を著わし、新聞紙を書き、法律を講じ、芸術を学び、工業も起こすべし、議院も開くべし、百般の事業行なうべからざるものなし。しかもこの事業を成し得て、国中の兄弟《けいてい》相|鬩《せめ》ぐにあらず、その智恵の鋒を争うの相手は外国人なり、この智戦に利あればすなわちわが国の地位を高くすべし。これに敗すればわが地位を落とすべし。その望み大にして期するところ明らかなりと言うべし。もとより天下の事を現に施行するには前後緩急あるべしといえども、到底この国に欠くべからざるの事業は、人々の所長によりて今より研究せざるべからず。いやしくも処世の義務を知る者は、この時に当たりてこの事情を傍観するの理なし。学者勉めざるべからず。
これによりて考うれば、今の学者たる者はけっして尋常学校の教育をもって満足すべからず、その志を高遠にして学術の真面目に達し、不覊独立もって他人に依頼せず、あるいは同志の朋友なくば一人にてこの日本国を維持するの気力を養い、もって世のために尽くさざるべからず。余輩もとより和漢の古学者流が人を治むるを知りてみずから修むるを知らざる者を好まず。これを好まざればこそ、この書の初編より人民同権の説を主張し、人々みずからその責めに任じてみずからその力に食《は》むの大切なるを論じたれども、この自力に食むの一事にてはいまだわが学問の趣意を終われりとするに足らず。
これを譬《たと》えば、ここに沈湎冒色《ちんめんぼうしょく》、放蕩無頼の子弟あらん。これを御するの法いかがすべきや。これを導きて人となさんとするには、まずその飲酒を禁じ遊冶《ゆうや》を制し、しかる後に相当の業につかしむることなるべし。その飲酒、遊冶を禁ぜざるの間は、いまだともに家業の事を語るべからず。されども人にして酒色に耽《ふけ》らざればとて、これをその人の徳義と言うべからず。ただ世の害をなさざるのみにて、いまだ無用の長物たるの名は免れ難し。その飲酒、遊冶を禁じたるうえ、またしたがって業につき、身を養い、家に益することありて、はじめて十人並みの少年と言うべきなり。自食の論もまたかくのごとし。
わが国士族以上の人、数千百年の旧習に慣れて、衣食の何ものたるを知らず、富有のよりて来たるところを弁ぜず、傲然《ごうぜん》みずから無為に食して、これを天然の権義と思い、その状あたかも沈湎冒色、前後を忘却する者のごとし。この時に当たり、この輩の人に告ぐるに何事をもってすべきや。ただ自食の説を唱えて、その酔夢を驚かすのほか手段なかるべし。この流の人に向かいて豈《あに》高尚の学を勧むべけんや。世を益するの大義を説くべけんや。たといこれに説き勧むるも、夢中学に入れば、その学問もまた夢中の夢のみ。すなわちこれわが輩がもっぱら自食の説を主張して、いまだ真の学問を勧めざりし所以なり。ゆえにこの説は、あまねく徒食の輩に告ぐるものにて、学者に諭《さと》すべき言にあらず。
しかるに聞く、近日中律の旧友、学問につく者のうち、まれには学業いまだ半ばならずして早くすでに生計の道を求むる人ありと。生計もとより軽んずべからず。あるいはその人の才に長短もあることなれば、後来の方向を定むるはまことに可なりといえども、もしこの風を互いに相倣《あいなら》い、ただ生計をこれ争うの勢いに至らば、俊英の少年はその実を未熟に残《そこな》うの恐れなきにあらず。本人のためにも悲しむべし、天下のためにも惜しむべし。かつ生計難しといえども、よく一家の世帯を計れば、早く一時に銭を取りこれを費やして小安を買わんより、力を労して倹約を守り大成の時を待つに若《し》かず。学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚《はばか》らず、米も搗《つ》くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらもできるものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を食らい味噌汁を啜《すす》り、もって文明の事を学ぶべきなり。
[#改段]
十一編
名分をもって偽君
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