人と言うがごときは、あたかも家族交際の有様を表わし出して、和して真率なるを称したるものなり。
第三 「道同じからざれば相ともに謀《はか》らず」と。世人またこの教えを誤解して、学者は学者、医者は医者、少しくその業を異にすれば相近づくことなし、同塾同窓の懇意にても、塾を巣立ちしたる後に、一人が町人となり一人が役人となれば、千里隔絶、呉越の観をなす者なきにあらず。はなはだしき無分別なり。人に交わらんとするには、ただに旧友を忘れざるのみならず、兼ねてまた新友を求めざるべからず。人類相接せざれば互いにその意を尽くすこと能《あた》わず、意を尽くすこと能わざればその人物を知るに由《よし》なし。試みに思え、世間の士君子、いったんの偶然に人に遭《あ》うて生涯の親友たる者あるにあらずや。十人に遭うて一人の偶然に当たらば、二十人に接して二人の偶然を得べし。人を知り、人に知らるるの始源は、多くこの辺にありて存するものなり。人望栄名なぞの話はしばらく擱《お》き、今日世間に知己朋友の多きは、差し向きの便利にあらずや。先年宮の渡しに同船したる人を、今日銀座の往来に見かけて双方図らず便利を得ることあり。今年出入りの八百屋が、来年奥州街道の旅籠屋《はたごや》にて腹痛の介抱してくれることもあらん。
人類多しといえども、鬼にもあらず蛇《じゃ》にもあらず、ことさらにわれを害せんとする悪敵はなきものなり。恐れはばかるところなく、心事を丸出しにしてさっさと応接すべし。ゆえに交わりを広くするの要は、この心事をなるたけ沢山にして、多芸多能一色に偏せず、さまざまの方向によりて人に接するにあり。あるいは学問をもって接し、あるいは商売によりて交わり、あるいは書画の友あり、あるいは碁・将棋の相手あり、およそ遊冶放蕩の悪事にあらざるより以上のことなれば、友を会するの方便たらざるものなし。あるいはきわめて芸能なき者ならばともに会食するもよし、茶を飲むもよし。なお下りて筋骨の丈夫なる者は腕押し、枕引き、足|角力《ずもう》も一席の興として交際の一助たるべし。腕押しと学問とは道同じからずして相ともに謀るべからざるようなれども、世界の土地は広く、人間の交際は繁多にして、三、五尾《び》の鮒《ふな》が井中《せいちゅう》に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。
底本:「日本の名著 33 福沢諭
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