その当たらざるを知るべし。およそ人心の働き、これを進めて進まざるものあることなし。その趣は人身の手足を役《えき》してその筋を強くするに異ならず。されば言語・容貌も人の心身の働きなれば、これを放却して上達するの理あるべからず。しかるに古来日本国中の習慣において、この大切なる心身の働きを捨てて顧みる者なきは、大なる心得違いにあらずや。ゆえに余輩の望むところは、改めて今日より言語容貌の学問と言うにはあらざれども、この働きを人の徳義の一ヵ条として等閑にすることなく、常に心にとどめて忘れざらんことを欲するのみ。
或る人またいわく、「容貌を快くするとは表を飾《かざ》ることなり。表を飾るをもって人間交際の要となすときは、ただに容貌顔色のみならず、衣服も飾り飲食も飾り、気に叶わぬ客をも招待して、身分不相応の馳走するなぞ、まったく虚飾をもって人に交わるの弊あらん」と。この言もまた一理あるがごとくなれども、虚飾は交際の弊にしてその本色にあらず。事物の弊害はややもすればその本色に反対するもの多し。「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」とは、すなわち弊害と本色と相反対するを評したる語なり。譬《たと》えば食物の要は身体を養うにありといえども、これを過食すればかえってその栄養を害するがごとし。栄養は食物の本色なり、過食はその弊害なり。弊害と本色と相反対するものと言うべし。
されば人間交際の要も和して真率なるにあるのみ。その虚飾に流るるものはけっして交際の本色にあらず。およそ世の中に夫婦親子より親しき者はあらず、これを天下の至親と称す。しこうしてこの至親の間を支配するは何ものなるや、ただ和して真率なる丹心あるのみ。表面の虚飾を却《しりぞ》け、またこれを掃《はら》い、これを却掃し尽くして、はじめて至親の存するものを見るべし。しからばすなわち交際の親睦は、真率のうちに存して、虚飾と並び立つべからざるものなり。
余輩もとより今の人民に向かいて、その交際、親子夫婦のごとくならんことを望むにあらざれども、ただその赴くべきの方向を示すのみ。今日俗間の言に人を評して、あの人は気軽な人と言い、気のおけぬ人と言い、遠慮なき人と言い、さっぱりした人と言い、男らしき人と言い、あるいは多言なれどもほどのよき人と言い、騒々しけれども悪《にく》からぬ人と言い、無言なれども親切らしき人と言い、こわいようなれどもあっさりした
前へ
次へ
全94ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング