巧みなる者は一斗の米を一斗三合に計り出し、その拙なる者は九升七合に計り込むことあり。余輩のいわゆる分に適するとは、計り出しもなくまた計り込みもなく、まさに一斗の米を一斗に計ることなり。升取りには巧拙あるも、これによりて生ずるところの差はわずかに内外の二、三分なれども、才徳の働きを升取りするに至りてはその差けっして三分にとどまるべからず、巧みなるは正味の二倍三倍にも計り出し、拙なるは半分にも計り込む者あらん。この計り出しの法外なる者は世間に法外なる妨げをなしてもとより悪《にく》むべきなれども、しばらくこれを擱《お》き、今ここには正味の働きを計り込む人のために少しく論ずるところあらんとす。
 孔子のいわく、「君子は人の己れを知らざるを憂えず、人を知らざるを憂う」と。この教えは当時世間に流行する弊害を矯《た》めんとして述べたる言ならんといえども、後世無気無力の腐儒は、この言葉をまともに受けて、引込み思案にのみ心を凝らし、その悪弊ようやく増長して、ついには奇物変人、無言無情、笑うことも知らず、泣くことも知らざる木の切れのごとき男を崇《あが》めて奥ゆかしき先生なぞと称するに至りしは、人間世界の一奇談なり。今この陋《いや》しき習俗を脱して活発なる境界に入り、多くの事物に接し博《ひろ》く世人に交わり、人をも知り己れをも知られ、一身に持ち前正味の働きを逞しゅうして、自分のためにし、兼ねて世のためにせんとするには、
 第一 言語を学ばざるべからず。文字に記して意を通ずるは、もとより有力なるものにして、文通または著述等の心がけも等閑にすべからざるは無論なれども、近く人に接して、直ちにわが思うところを人に知らしむるには、言葉のほかに有力なるものなし。ゆえに言葉は、なるたけ流暢《りゅうちょう》にして活発ならざるべからず。近来世上に演説会の設けあり。この演説にて有益なる事柄を聞くはもとより利益なれども、このほかに言葉の流暢活発を得るの利益は、演説者も聴聞者もともにするところなり。
 また今日不弁なる人の言を聞くに、その言葉の数はなはだ少なくしていかにも不自由なるがごとし。譬《たと》えば学校の教師が訳書の講義なぞするときに、「円《まる》き水晶の玉」とあれば、わかりきったることと思うゆえか、少しも弁解をなさず、ただむずかしき顔をして子供を睨《にら》みつけ、「円き水晶の玉」と言うばかりなれども、も
前へ 次へ
全94ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング