《そご》するとは、議論に言うところと実地に行なうところと一様ならずということなり。「功に食《は》ましめて志に食ましめずとは、「実地の仕事次第によりてこそ物をも与うべけれ、その心になんと思うとも形もなき人の心事をば賞すべからず」との義なり。また俗間に、「某《なにがし》の説はともかくも、元来働きのなき人物なり」とてこれを軽蔑することあり。いずれも議論と実業と相当せざるを咎《とが》めたるものならん。
さればこの議論と実業とは寸分も相齟齬せざるよう正しく平均せざるべからざるものなり。今、初学の人の了解に便ならしめんがため、人の心事と働きという二語を用いて、その互いに相助けて平均をなし、もって人間の益を致す所以《ゆえん》と、この平均を失うよりして生ずるところの弊害を論ずること左のごとし。
第一 人の働きには、大小軽重の別あり。芝居も人の働きなり、学問も人の働きなり、人力車を挽《ひ》くも、蒸気船を運用するも、鍬をとりて農業するも、筆を揮《ふる》いて著述するも、等しく人の働きなれども、役者たるを好まずして学者たるを勤め、車挽きの仲間に入らずして航海の術を学び、百姓の仕事を不満足なりとして著書の業に従事するがごときは、働きの大小軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものなり。人間の美事と言うべし。然りしこうして、そのこれを弁別せしむるものはなんぞや。本人の心なり、また志なり。かかる心志ある人を名づけて心事高尚なる人物と言う。ゆえにいわく、人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざるなり。
第二 人の働きはその難易にかかわらずして、用をなすの大なるものと小なるものとあり。囲碁・将棋等の技芸も易《やす》きことにあらず、これらの技芸を研究して工夫を運《めぐ》らすの難《かた》きは、天文・地理・器械・数学等の諸件に異ならずといえども、その用をなすの大小に至りてはもとより同日の論にあらず。今この有用無用を明察して有用の方につかしむるものは、すなわち心事の明らかなる人物なり。ゆえにいわく、心事明らかならざれば人の働きをしていたずらに労して功なからしむることあり。
第三 人の働きには規則なかるべからず。その働きをなすに場所と時節とを察せざるべからず。譬《たと》えば道徳の説法はありがたきものなれども、宴楽の最中に突然とこれを唱うればいたずらに人の嘲《あざけ》りを
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