つ許すべし。その笑うべきの極度に至りては他人の物を誤り認め、隣りの細君が御召縮緬《おめしちりめん》に純金の簪《かんざし》をと聞きて大いに心を悩まし、急に我もと注文して後によくよく吟味すれば、豈《あに》計らんや、隣家の品は綿縮緬に鍍金《めっき》なりしとぞ。かくのごときは、すなわちわが本心を支配するものは自分の物にあらずまた他人の物にもあらず、煙のごとき夢中の妄想に制せられて、一身一家の世帯は妄想の往来に任ずるものと言うべし。精神独立の有様とは多少の距離あるべし。その距離の遠近は銘々にて測量すべきものなり。
 かかる夢中の世渡りに心を労し、身を役《えき》し、一年千円の歳入も、一月百円の月給も、遣《つか》い果たしてその跡を見ず、不幸にして家産歳入の路《みち》を失うか、または月給の縁に離るることあれば、気抜けのごとく、間抜けのごとく、家に残るものは無用の雑物《ぞうもつ》、身に残るものは奢移《しゃし》の習慣のみ。憐れと言うもなおおろかならずや。産を立つるは一身の独立を求むるの基《もとい》なりとて心身を労しながら、その家産を処置するの際に、かえって家産のために制せられて独立の精神を失い尽くすとは、まさにこれを求むるの術をもってこれを失うものなり。余輩あえて守銭奴の行状を称誉するにあらざれども、ただ銭を用うるの法を工夫し、銭を制して銭に制せられず、毫《ごう》も精神の独立を害することなからんを欲するのみ。

   心事と働きと相当すべきの論

 議論と実業と両《ふたつ》ながらそのよろしきを得ざるべからずとのことは、あまねく人の言うところなれども、この言うところなるものもまたただ議論となるのみにして、これを実地に行なう者はなはだ少なし。そもそも議論とは、心に思うところを言に発し、書に記すものなり。あるいはいまだ言と書に発せざれば、これをその人の心事と言い、またはその人の志と言う。ゆえに議論は外物に縁なきものと言うも可なり。畢竟内に存するものなり、自由なるものなり、制限なきものなり。実業とは心に思うところを外に顕《あら》わし、外物に接して処置を施すことなり。ゆえに実業には必ず制限なきを得ず、外物に制せられて自由なるを得ざるものなり、古人がこの両様を区別するには、あるいは言と行と言い、あるいは志と功と言えり。また今日俗間にて言うところの説と働きなるものも、すなわちこれなり。
 言行|齟齬
前へ 次へ
全94ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング