然りといえどもこの少年が先生の風を擬するのあまりに、先生の夜話に耽《ふけ》りて朝寝するの癖をも学び得て、ついに身体の健康を害することあらば、これを智者と言うべきか。けだしこの少年は先生を見て十全の学者と認め、その行状の得失を察せずして悉皆これに倣わんとし、もってこの不幸に陥りたるものなり。
 支那の諺に、「西施《せいし》の顰《ひそ》みに倣う[#「顰《ひそ》みに倣う」は底本では「顰《ひそみ》みに倣う」]」ということあり。美人の顰みはその顰みの間におのずから趣ありしがゆえにこれに倣いしことなればいまだ深く咎むるに足らずといえども、学者の朝寝になんの趣あるや。朝寝はすなわち朝寝にして、懶惰《らんだ》不養生の悪事なり。人を慕うのあまりにその悪事に倣うとは笑うべきのはなはだしきにあらずや。されども今の世間の開化者流にはこの少年の輩《はい》はなはだ少なからず。
 仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促《うなが》しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。日本人は寝屋の内に尿瓶《しびん》を置きてこれに小便を貯《たくわ》え、あるいは便所より出でて手を洗うことなく、洋人は夜中といえども起きて便所に行き、なんら事故あるも必ず手を洗うの風ならば、論者評して言わん、「開化の人は清潔を貴ぶの風あれども、不開化の人民は不潔の何ものたるを知らず、けだし小児の智識いまだ発生せずして汚潔を弁ずること能《あた》わざる者に異ならず、この人民といえどもしだいに進んで文明の域に入らば、ついには西洋の美風に倣《なら》うことあるべし」と。洋人は鼻汁を拭うに毎次紙を用いて直ちにこれを投棄し、日本人は紙に代わるに布を用い、したがって洗濯してしたがってまた用うるの風ならば、論者たちまち頓智を運《めぐ》らし、細事を推して経済論の大義に付会して言わん、「資本に乏しき国土においては、人民みずから知らずして節倹の道に従うことあり。日本全国の人民をして鼻紙を用うること西洋人のごとくならしめなば、その国財の幾分を浪費すべきはずなるに、よくその不潔を忍んで布を代用するは、みずから資本の乏しきに迫られて節倹に赴くものと言
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