名づくるものはみな大人と大人との仲間なり。他人と他人との付合いなり。この仲間付合いに実の親子の流儀を用いんとするもまた難きにあらずや。されども、たとい実には行なわれ難きことにても、これを行のうてきわめて都合よからんと心に想像するものは、その想像を実に施したく思うもまた人情の常にて、すなわちこれ世に名分なるものの起こりて専制の行なわるる所以なり。ゆえにいわく、名分の本《もと》は悪念より生じたるにあらず、想像によりてしいて造りたるものなり。
アジヤ諸国においては、国君のことを民の父母と言い、人民のことを臣子または赤子《せきし》と言い、政府の仕事を牧民の職と唱えて、支那には地方官のことを何州の牧と名づけたることあり。この牧の字は獣類を養うの義なれば、一州の人民を牛羊のごとくに取り扱うつもりにて、その名目を公然と看板に掛けたるものなり。あまり失礼なる仕方にはあらずや。かく人民を子供のごとく、牛羊のごとく取り扱うといえども、前段にも言えるとおり、そのはじめの本意は必ずしも悪念にあらず、かの実の父母が実の子供を養うがごとき趣向にて、第一番に国君を聖明なるものと定め、賢良方正の士を挙げてこれを輔《たす》け、一片の私心なく半点の我欲なく、清きこと水のごとく、直《なお》きこと矢のごとく、己が心を推して人に及ぼし、民を撫《ぶ》するに情愛を主とし、饑饉《ききん》には米を給し、火事には銭を与え、扶助救育して衣食住の安楽を得せしめ、上《かみ》の徳化は南風の薫ずるがごとく、民のこれに従うは草の靡《なび》くがごとく、その柔らかなるは綿のごとく、その無心なるは木石のごとく、上下合体ともに太平を謡《うた》わんとするの目論見《もくろみ》ならん。実に極楽の有様を模写したるがごとし。
されどもよく事実を考うれば、政府と人民とはもと骨肉の縁あるにあらず、実に他人の付合いなり。他人と他人との付合いには情実を用ゆべからず、必ず規則約束なるものを作り、互いにこれを守りて厘毛の差を争い、双方ともにかえって円《まる》く治まるものにて、これすなわち国法の起こりし所以なり。かつ右のごとく、聖明の君と賢良の士と柔順なる民とその注文はあれども、いずれの学校に入れば、かく無疵《むきず》なる聖賢を造り出だすべきや、なんらの教育を施せばかく結構なる民を得べきや、唐人も周の世以来しきりにここに心配せしことならんが、今日まで一度も
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