古せんとするも、決してよくすべからず。
 また今の学者を見るに、維新以来の官費生徒はこれを別にし、天保年間より、漢学にても洋学にても学問に志して、今日国の用をなす者は、たいがい皆私費をもって私塾に入り、人民の学制によって成業したる者多し。今日においても官学校の生徒と私学校の生徒とを比較すれば、その学芸の進歩、一得一失、未だ優劣を決すべからず。あるいは学校費用の一点について官私を比較すれば、私立の方に幾倍の便利あること明らかに保証すべし。されば人民の政は、ただ多端なるのみに非ず、また盛大有力なりといわざるべからず。
 右の次第をもって考うれば、人民の世界に事務なきを患《うれう》るに足らず。実はその繁多にしてこれに従事するの智力に乏しきこそ患《うれ》うべけれ。これを勤めて怠らざれば、その事務よくあがりて功を奏したるの例も少なからず。一事に功を奏すれば、したがってまた一事に着手し、次第に進みてやむことなくば、政府の政《まつりごと》は日に簡易に赴き、人民の政は月に繁盛をいたし、はじめて民権の確乎たるものをも定立するを得べきなり。余輩、つねに民権を主張し、人民の国政にかかわるべき議論を悦《よろこ》ばざるに非ずといえども、その趣意はただちに政府の内に突入して官員の事務を妨ぐるか、または官員に代りて事をなさんとするの義に非ず。人民は人民の地位にいて、自家の領分内に沢山なる事務に力をつくさんことを欲するのみ。
 すなわち、これ広き字義にしたがいて国政にかかわるものというべし。ただちに政府に接せずして、間接にその政に参与するものというべし。間接の勢は直接の力よりもかえって強きものなり。学者これを思わざるべからず。今の人民の世界にいて事を企《くわだ》つるは、なお、蝦夷地《えぞち》に行きて開拓するが如し。事の足らざるは患《うれい》に非ず、力足らざるを患《うれ》うべきなり。
 然るに、今の学者はその思想を一方に偏し、ひたすら政府の政に向って心を労するのみにして、自家の領分には毫《ごう》も余地を見出さざるものの如し。たとえば世に、商売工業の議論あり、物産製作の議論あり、華士族処分の議論あり、家産相続法の議論あり、宗旨の得失を論ずる者あり、教育の是非を議する者あり、学校設立の説を述《のぶ》る者あり、文字改革の議を発する者あり。
 いずれも皆、国の文明のために重大なる事件にして、学者のこれに着眼するは祝すべきことなれども、学者はただこれに眼《まなこ》を着《ちゃく》し、これを議論に唱うるのみにして、その施行の一段にいたりては、ことごとくこれを政府の政《まつりごと》に托し、政府はこの法をかくの如くしてこの事をかくの如くなすべしといい、この事の行われざることあらば、この法をもってこれを禁ずべしといい、これを禁じこれを勧め、一切万事、政府の道具仕掛けをもって天下の事を料理すべきものと思い、はなはだしきは己れ自から政府の地位に進み、自からその事を試んとする者なきに非ず。これすなわち上書建白《じょうしょけんぱく》の多くして、官府に反故《ほご》のうずたかきゆえんなり。
 かりにその上書建白をして御採用の栄を得せしめ、今一歩を進めて本人も御抜擢《ごばってき》の命を拝することあらん。而《しこう》してその素志《そし》果して行われたるか、案に相違の失望なるべし。人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨《うらや》み、兄は親爺《おやじ》の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合あるべきのみ。この不都合をもかえりみず、この失望にも懲《こ》りず、なおも奇計妙策をめぐらして、名は三千余方の兄弟にはかるといい、その内実の極意は、暗に政府を促して己が妙計を用いしめんと欲するにすぎず。区々たる政府の政《まつりごと》に熱中奔走して、自家の領分はこれを放却して忘れたるが如し。内を外にするというべきか、外を内にするというべきか、いずれにも本気の沙汰とは認め難し。政の字の広き意味にしたがえば、人民の政事《せいじ》には際限あるべからず。これを放却して誰に託せんと欲するか、思わざるのはなはだしきものというべし。この人民の政を捨てて政府の政にのみ心を労し、再三の失望にも懲りずして無益の談論に日を送る者は、余輩これを政談家といわずして、新奇に役談家《やくだんか》の名を下すもまた不可なきが如く思うなり。
 今の如く役談家の繁昌する時節において、国のために利害をはかれば、政府をしてその議論を用いしむるも害あり、用いしめざるもまた害あり。これを用いんか、奇計妙策、たちまち実際に行われて、この法を作り、かの律を製し、この条をけずり、かの目《もく》を加え、したがって出だせばしたが
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング