便なり。近くその例を示さん。他人の同居して不和なる者、別宅して相親しむべし。他人のみならず、親子兄弟といえども、二、三の夫婦が一家に眠食して、よくその親愛をまっとうしたるの例は、世間にはなはだ稀なり。
今政府と人民とは他人の間柄なり。未だ遠ざからずして、まず相近づかんとするは、事の順序を誤るものというべし。けだし各種の人がめいめいの地位にいて、その地位の利害におおわれ、ついに事柄の判断を誤るものは、他の地位の有様を詳《つまびらか》にすること能わざるがゆえなり。その有様に密接すること、同居人が眠食をともにするが如くなるがゆえなり。その相接すること密《みつ》に過ぎ、かえって他の全体を見ること能わずして、局処をうかがうに察々たるがゆえなり。なお、かの、山を望み見ずして山に登りて山を見るが如く、とうてい物の真情を知るによしなし。真情相通ぜざれば、双方の交際は、ただ局処の不平と不平と敵対の勢をなすのみ。
ここにおいてか、人を妬《そね》み人を悪《にくみ》て、たがいに寸分の余地をのこさず、力ある者は力をつくし、智恵ある者は智恵をたくましゅうし、ただ一片の不平心を慰めんがために孜々《しし》として、永遠の利害はこれを放却して忘れたるが如くなるにいたる者、すくなからず。ひっきょう、その本《もと》は、たがいに近づくべからざるの有様をもって、強いて相近づかんとし、たがいにその有様を誤解して、かえってますます遠隔敵視の禍《わざわい》を増すものというべし。
今世間の喋々を聞けば、一方の説にいわく、人民無智無法なるがゆえに政府これに権力を附与すべからずと。また一方はいわく、政府はさまざまの事に手を出し、さまざまの法をつくりて人民の働をたくましゅうせしめずと。いわゆる水掛論なり。然りといえども、智愚相対してその間に不和あれば、智者まず他を容《い》れてこれを処置せざるべからず。
ゆえに真の愚民に対しては、政府まずその愚を容れてこの水掛論の処置に任せざるべからずといえども、本編の主として論ずる学者にいたりては、すなわちこれを愚民と同一視すべからず。この流の人は、改進政談家をもって自からおり、肉を裁《さい》するをいさぎよしとせずして、天下を裁するの志を抱き、政府に対してこれに感服せざるのみならず、つねに不平を訴うるほどのことなれば、その心志のとどまるところは、かえって政府の上流にありといわざるをえず。
この一事は学者も私《ひそか》に自から許すところならん。ゆえに学者の考にしたがえば、今の学者の品格は政府よりも高くしてはるかにその右に出で、政府は愚にして学者は智なりというべし。智愚はまずここに定まりたり。然らばすなわちかの水掛論は如何すべきや。余輩あえて政府に代りて苦情を述べん。政談家はさまざまの事に口を出し、さまざまの理屈を述べて政府の働を逞《たくま》しゅうせしめずと。学者はなおもこの政府に直接して衝《つ》くが如く刺すが如く、かの小姑《こじゅうとめ》を学びて家嫂《かそう》を煩《わずら》わさんと欲するか。智者の所業にははなはだもって不似合《ふにあい》なり。いわゆる智者にして愚を働くものというべし。
ひっきょう、この水掛論は、元素の異同より生じたるものに非ず。その原因は、近く地位の異同より心情の偏重を生ずるによりて来りしものなれども、今日の有様にては、その是非を分つべからず。余輩はただ今後の成行に眼《まなこ》をつけ、そのいずれかまず直接法の不便利を悟りて、前に出したる手を引き、口を引き、理屈を引き、さらに思想を一層の高きに置きて、無益の対陣を解く者ならんと、かたわらより見物して水掛論の落着《らくちゃく》を待つのみ。
この全編の大略を概していえば、天下の人心、直接すればその交《まじわり》をまっとうすべからず。今の世間に、この流行病あり。開国以来、我が日本の人心は、守旧と改進と二流に分れて、今の政府は改進の方にあるものなり。然るに、改進の学者流と政府との間に不和あるは何ぞや。この流の人は、民権を論ずれども、その眼をただ政府の一方にのみ着《ちゃく》して、自家の事務を忘るるがゆえなり。今の如く政談家の多きは国のために祝すべからず。これを用うるも害あり、これを用いざるもまた害あり。民権論者と政府との不和は、あたかも一流中の内乱にして、これがため事情の紛紜《ふんぬん》をいたし、ついには守旧と改進との分界も分明ならざるの禍を招くべし。
一国の政《まつりごと》は正《まさ》しく人民の智愚に応ずるものなれば、人力をもって容易に料理すべからず。さりとて、政府もまた、よく人智の進歩に着目して油断すべからざるなり。政府と学者と直接に相対すること、今日の如くしては際限あるべからず。ゆえに、たがいに相遠ざかりて、相近づくの法を求めざるべからず。離は合の術なり、遠は近の方便なりとの趣
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング