学問というほどのこともあるまじ、人たる者の心得といいて可ならんか。この心得ありて後に、士農工商、おのおのその志すところの学を勤むべし。
一、前条の外に、化学、天文学等、種々の科目あれども、窮理学の中に属するものなれば別に掲げず。
一、学問の順序は、必ずしもこの一科を終りて次に移るにあらず、二科も三科も同時に学ぶべし。
一、漢字を知らざれば、原書を訳するにも訳書をよむにも、差支《さしつかえ》多し。ゆえに、最初エビシを学ぶときより、我が、いろはを習い、次第に仮名本《かなぼん》を読み、ようやく漢文の書にも慣れ、字の数を多く知ること肝要なり。
一、幼年の者へは漢学を先にして、後に洋学に入らしむるの説もあれども、漢字を知るはさまで難事にあらず、よく順序を定めて、四書五経などむつかしき書は、字を知りて後に学ぶべきなり。少年のとき四書五経の素読《そどく》に費《ついや》す年月はおびただしきものなり。字を知りし上にてこれを読めば、独見《どくけん》にて一月の間に読み終るべし。とかく読書の要は、易きを先にし難きを後にするにあり。
一、漢洋兼学は難《かた》きことなれば一方にしたがうべきなど、弱き説を唱うるものなきにあらず。されども人の知識は勉むるにしたがい際限なきものなれば、わずかに二、三ヶ国の語を学ぶとて何ぞこれを恐るるに足らん。洋学も勉強すべし、漢学も勉強すべし、同時に学んでともに上達すべし。西洋の学者は、必ずラテン、ギリーキの古語を学び、そのほか五、六ヶ国の語に通ずる者少なからず。東洋諸国に来たる欧羅巴人は、支那・日本の語にも通じて、著述などするものあり。西洋人に限り天稟《てんぴん》文才を備うるとの理もあるまじ。ただ学問の狭博はその人の勉・不勉にあるのみ。
一、翻訳書を読むものは、まず仮名附の訳書を先にし、追々漢文の訳本を読むべし。字を知るのみならず、事柄もわかり、原書を読むの助けとなりて、大いに便利なり。国内一般に文化を及ぼすは、訳書にあらざればかなわぬことなり。原書のみにて人を導かんとするも、少年の者は格別なれども、晩学生には不都合なり。
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二十四、五歳以上にて漢書をよく読むという人、洋学に入る者あれども、智恵ばかり先ばしりて、乙に私の議論を貯えて心事多きゆえ、横文字の苦学に堪えず、一年を経ずして、ついに自から廃し、またもとの漢学に帰る者ままこれあり。この
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