き得るの力を強くするの道にほかならざるなり。
故に一口に教育と呼び做《な》せども、その領分はなかなか広きものにて、ただに読み書きを教うるのみを以て教育とは申し難し。読み書きの如きはただ教育の一部分なるのみ。実に教育の箇条は、前号にも述べたる如く極めて多端なりといえども、早くいえば、人々が天然自然に稟《う》け得たる能力を発達して、人間急務の仕事を仕遂《しと》げ得るの力を強くすることなり。その天稟《てんぴん》の能力なるものは、あたかも土の中に埋れる種の如く、早晩《いつか》萌芽を出《いだ》すの性質は天然自然に備えたるものなり。されども能《よ》くその萌芽を出して立派に生長すると否《しか》らざるとは、単に手入れの行届くと行届かざるとに依《よ》るなり。即ち培養《ていれ》の厚薄良否に依るというも可なり。いわゆる教育なるものは則《すなわ》ち能力の培養にして、人始めて生まれ落ちしより成人に及ぶまで、父母の言行によって養われ、あるいは学校の教授によって導かれ、あるいは世の有様に誘《いざな》われ、世俗の空気に暴《さら》されて、それ相応に萌芽を出し生長を遂《と》ぐるものなれば、その出来不出来は、その培養たる教育の良否によって定まることなり。就中《なかんずく》幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯《た》め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真《まこと》に人の賢不肖《けんふしょう》は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭の教育、謹《つつし》むべきなり。
然《しか》るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎《つね》に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置《しょち》するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中《みぞなか》に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額《ひたい》に瘤《こぶ》を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓《とん》と区別はなきこと
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