、花魁」
お熊は廊下へ出るとそのまま階下《した》へ駈け出して行った。
吉里はじッと考えて、幾たびとなく溜息を吐《つ》いた。
「もういやなこッた。この上苦労したッて――この上苦労するがものアありゃしない。私しゃ本統に済まないねえ。西宮さんにも済まない。小万さんにも済まない。ああ」
吉里は歎息しながら、袂《たもと》から皺《しわ》になッた手紙を出した。手紙とは言いながら五六行の走り書きで、末にかしくの止めも見えぬ。幾たびか読み返すうちに、眼が一杯の涙になッた。ついに思いきった様子で、宛名《あてな》は書かず、自分の本名のお里のさ[#「さ」に傍点]印《じるし》とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。
廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣《ひきだし》を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包みを取り出した。中には平田の写真が入ッていた。重ね合わせてあッたのは吉里の写真である。
じッと見つめているうちに、平田の写真の上にはらはらと涙が落ちた。忙《あわ》てて紙で押えて涙を拭き取り、自分の写真と列《なら》べて見て、また泣いた上で元のように紙に包んで傍に置いた。
今|一個《ひとつ》の抽匣から取り出したのは、一束《ひとつか》ねずつ捻紙《こより》で絡《から》げた二束《ふたつ》の文《ふみ》である。これはことごとく平田から来たのばかりである、捻紙を解いて調べ初めて、その中から四五本|選《え》り出して、涙ながら読んで涙ながら巻き納めた。中には二度も三度も読み返した文もあッた。涙が赤い色のものであッたら、無数の朱点が打たれたらしく見えた。
この間も吉里はたえず耳を澄ましていたのである。今何を聞きつけたか、つと立ち上った。廊下の障子を開けて左右を見廻し、障子を閉めて上の間の窓の傍に立ち止ッて、また耳を澄ました。
上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。
十一
午前《あさ》の三時から始めた煤払いは、夜の明けないうちに内所をしまい、客の帰るころから娼妓《じょろう》の部屋部屋を払《はた》き始めて、午前《ひるまえ》の十一時には名代部屋を合わせて百|幾個《いくつ》の室《へや》に蜘蛛の網《す》一線《ひとすじ》剰《のこ》さず、廊下に雑巾まで掛けてしまった。
出入りの鳶《とび》の頭《かしら》を始め諸商人、女髪結い、使い屋の老物《じじい》まで、目録のほかに内所から酒肴《しゅこう》を与えて、この日一日は無礼講、見世から三階まで割れるような賑《にぎ》わいである。
娼妓《しょうぎ》もまた気の隔《お》けない馴染みのほかは客を断り、思い思いに酒宴を開く。お職女郎の室は無論であるが、顔の古い幅の利く女郎の室には、四五人ずつ仲のよい同士が集《よ》ッて、下戸上戸飲んだり食ッたりしている。
小万はお職ではあり、顔も古ければ幅も利く。内所の遣《つか》い物に持寄りの台の数々、十畳の上の間から六畳の次の間までほとんど一杯になッていた。
鳶の頭と店の者とが八九人、今|祝《し》めて出て行ッたばかりのところで、小万を始め此糸《このいと》初紫《はつむらさき》初緑名山千鳥などいずれも七八分の酔《え》いを催し、新造《しんぞ》のお梅まで人と汁粉《しるこ》とに酔ッて、頬から耳朶《みみたぶ》を真赤にしていた。
次の間にいたお梅が、「あれ危ない。吉里さんの花魁、危のうござんすよ」と、頓興《とんきょ》な声を上げたので、一同その方を見返ると、吉里が足元も定まらないまで酔ッて入ッて来た。
吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被《はお》ッて、赤味走ッたがす[#「がす」に傍点]糸織に繻子《しゅす》の半襟を掛けた綿入れに、緋《ひ》の唐縮緬《とうちりめん》の新らしからぬ長襦袢《ながじゅばん》を重ね、山の入ッた紺博多《こんはかた》の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳《いつつむッつ》も老《ふ》けていたら、花魁の古手の新造落《しんぞお》ちという風俗である。
呆《あき》れ顔をしてじッと見ていた小万の前に、吉里は倒れるように坐ッた。
吉里は蒼い顔をして、そのくせ目を坐《す》えて、にッこりと小万へ笑いかけた。
「小万さん。私しゃね、大変|御無沙汰《ごぶさた》しッちまッて、済まない、済まない、ほんーとうに済まないんだねえ。済まないんだよ、済まないんだよ、知ッてて済まないんだからね。小万さん、先日《いつか》ッからそう[#「そう」に傍点]思ッてたんだがね、もういい、もういい、そんなことを言ッたッて、ねえ小万さん、お前さんに笑われるばかしなんだよ。笑う奴ア笑うがいい。いくらでもお笑い。さアお笑い。笑ッておく
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