、富沢町《とみざわちょう》が」と、西宮は小声に言ッて、「それもいいさ。久しぶりで――あんまり久しぶりでもなかッた、一昨日《おととい》の今夜だッけね。それでもまア久しぶりのつもりで、おい平田、盃《さかずき》を廻したらいいだろう。おッと、お代《かわ》り目《め》だッた。おい、まだかい。酒だ、酒だ」と、次の間へかけて呼ぶ。
「もうすこし。お前さんも性急《せッかち》だことね。ついぞない。お梅どんが気が利《き》かないんだもの、加炭《つい》どいてくれりゃあいいのに」と、小万が煽《あお》ぐ懐紙の音がして、低声《こごえ》の話声《はなし》も聞えるのは、まだお熊が次の間にいると見える。
吉里は紙巻煙草《シガー》に火を点《つ》けて西宮へ与え、「まだ何か言ッてるよ。ああ、いやだいやだ」
「またいやだいやだを始めたぜ。あの人も相変らずよく来てるじゃアないか。あんまりわれわれに負けない方だ。迷わせておいて、今さら厭だとも言えまい。うまい言の一語《ひとこと》も言ッて、ちッたあ可愛がッてやるのも功徳《くどく》になるぜ」
「止《よ》しておくんなさいよ。一人者になッたと思ッて、あんまり酷待《いじめ》ないで下さいよ」
「一人者だと」と、西宮はわざとらしく言う。
「だッて、一人者じゃアありませんか」と、吉里は西宮を見て淋《さみ》しく笑い、きッと平田を見つめた。見つめているうちに眼は一杯の涙となッた。
二
平田は先刻《さきほど》から一言《ひとこと》も言わないでいる。酒のない猪口《ちょく》が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物《さかな》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ッたり、煮えつく楽鍋《たのしみなべ》に杯泉《はいせん》の水を加《さ》したり、三つ葉を挾《はさ》んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちらを見ておらぬ隙《すき》を覘《ねら》ッては、眼を放し得なかッたのである。隙を見損《みそこ》なッて、覚えず今吉里へ顔を見合わせると、涙一杯の眼で怨《うら》めしそうに自分を見つめていたので、はッと思いながら外《はず》し損ない、同じくじッと見つめた。吉里の眼にはらはら[#「はらはら」に傍点]と涙が零《こぼ》れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐《つ》いて涙ぐんだ。
西宮は二人の様子に口の出し端《は》を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ
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