意地ばかりでなく、真心《しんしん》修羅《しゅら》を焚《もや》すのは遊女の常情《つね》である。吉里も善吉を冷遇《ふッ》てはいた。しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造《しんぞ》のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇《ふら》しめたのである。何だか知らぬけれども、いやでならなかッたのである。別離《わかれ》ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。
 吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を与え、「お酌をさせていただきましょうね」と、箪笥を放れて酌をした。
 善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦《ふる》え出した。

     九

「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。
 善吉はしばらく言うところを知らなかッた。
「吉里さん、献《あ》げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すこともないんだ」と、善吉は猪口を出す手が戦《ふる》えて、眼を含涙《うるま》している。
「どうなすッたんですよ。今日ッきりだとか、今日が別れだとか、そんないやなことをお言いなさらないで、末長く来て下さいよ。ね、善さん」
「え、何を言ッてるんだね。吉里さん、お前さん本気で……。ははははは。串戯《じょうだん》を言ッて、私をからか[#「からか」に傍点]ッたッて……」
「ほほほほ」と、吉里も淋《さみ》しく笑い、「今日ッきりだなんぞッて、そんなことをお言いなさらないで、これまで通り来ておくんなさいよ」
 善吉は深く息を吐《つ》いて、涙をはらはらと零《こぼ》した。吉里はじッと善吉を見つめた。
「私しゃ今日ッきり来られないんだ。吉里さん、実に今日がお別れなんです」と、善吉は猪口を一息に飲み乾し、じッとうつむいて下唇を噛んだ。
「そんなことをお言いなさッて、本統なんですか。どッか遠方《とおく》へでもおいでなさるんですか」
「なアに、遠方《とおく》へ行くんだか、どこへ行くんだか、私にも分らないんですがね……」と、またじッと考えている。
「何ですよ。
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