小式部という花魁が言ッた。
「小式部さん、これを上げよう」と、初緑は金盥の一個《ひとつ》を小式部が方《かた》へ押しやり、一個《ひとつ》に水を満々《なみなみ》と湛《たた》えて、「さア善さん、お用《つか》いなさい。もうお湯がちっともないから、水ですよ」
「いや、結構。ありがとう」
「今度おいでなさる時、きっとですよ」
 善吉は漱《うがい》をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯《たわぶ》れながら去《い》ッてしまッた。
「吉里さん、吉里さん」と、呼んだ声が聞えた。善吉は顔を水にしながら声のした方を見ると、裏梯子の下のところに、吉里が小万と話をしていた。善吉はしばらく見つめていた。善吉が顔を洗い了《おわ》ッた時、小万と吉里が二階の廊下を話しながら行くのが見えた。

     八

 桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発《た》ッている。能代《のしろ》の膳には、徳利《とッくり》が袴《はかま》をはいて、児戯《ままごと》みたいな香味《やくみ》の皿と、木皿に散蓮華《ちりれんげ》が添えて置いてあッて、猪口《ちょく》の黄金水《おうごんすい》には、桜花《さくら》の弁《はなびら》が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。
 膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対《むか》い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息《ためいき》をつき得るのみである。
「吉里さん、いかがです。一杯《ひとつ》受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で飲むという奴は、どうも淋《さみ》しくッて、何だか飲んでるような気がしなくッていけないものだ。一杯《ひとつ》受けてもらいたいものですな。ははははは。私なんざア流連《いつづけ》をする玉でないんだから、もうじきにお暇《いとま》とするんだが、花魁今朝だけは器用に快よく受けて下さいな。これがお別れなんだ。今日ッきりもうお前さんと酒を飲むこともないんだから、器用に受けて、お前さんに酌をしてもらやアいい。もう、それでいいんだ。他に何にも望みはないんだ。改めて献《あ》げるから、ねえ吉里さん、器用に受けて下さい」
 善吉は注置《つぎお》
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