間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去《かえ》らなきゃ去らないでもいい。情夫《いいひと》だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去《かえ》りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
方角も吉里の室、距離《とおさ》もそのくらいのところに上草履の音が発《おこ》ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去《かえ》るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥《は》ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見《きまり》が悪いな」と、障子の破隙《やぶれ》からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去《かえ》らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫《の》もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺《ひそ》み、深く物を思う体《てい》である。
「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦《ふる》えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失《な》くした、お千代も生家《さと》へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」
上草履はまたはるかに聞え出した。梯子《はしご》を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門《くぐり》を開ける音がして、続いて人車《くるま》の走るのも聞えた。
「はははは、去《かえ》ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。きッとそうだ。きッとそうだ。そらこッちに駈けて来た」
善吉は今にも吉里が障子を開けて、そこに顔を出すような気がして、火鉢に手
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