「えッ。いつ故郷《おくに》へ立発《たつ》んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。
「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。
「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛《か》んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反《そ》ッて西宮へ倒れかかッた。
折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」
「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」
「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」
「平田はどうした。平田は、平田は」
「平田さんですか」
いつかお梅も此室《ここ》に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。
「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」
お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝《つ》き当り障子を倒し、素足で廊下を駈《か》け出した。
五
平田は臥床《とこ》の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰《む》き眼を合《ねむ》り、後眥《めじり》からは涙が頬へ線《すじ》を画《ひ》き、下唇《したくちびる》は噛まれ、上唇は戦《ふる》えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
二人の定紋を比翼につけた枕《まくら》は意気地なく倒れている。燈心が焚《も》え込んで、あるかなしかの行燈《あんどう》の火光《ひかり》は、「春如海《はるうみのごとし》」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
帰期《かえり》を報《し》らせに来た新造《しんぞ》のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳《かざ》し頬を焙《あぶ》り、上の間へ耳を聳《そばだ》てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報《う》ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効《かい》がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮
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