のである。成るほどこの歌の如きにしても 柔肌の熱き血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 のやうに 鎌倉や御仏なれどシヤカムニは美男におはす夏木立哉 のやうに一読直ちに瞭然とは行かない。男が一人悄然として物思はしげに立つてゐる。その前は涯知らぬ大海で汐がごうごう鳴つてゐる。沙の上に昼顔が咲いてゐるが何の表情も示さない。この三者を取り合せて一枚の絵を構成し、一小曲を組織したのがこの歌である。それ故にこの歌にあらはれてゐる美術なり音楽なりを受け入れる準備が読者に出来てゐなければ何のことだか分らないわけだ、それではいつ迄経つてもどうにもならないので私が今度これを書き出して少しづつ受け入れの準備をすることになつた訳だ。

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妙高の山の紫草にしみ黄昏方となりにけるかな
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 作者は何万といふ歌を作つたがその三分の二は所謂旅の歌である。旅の歌はしかし第三者には余り興味のあるものではない。而してそれが何十何百と一度に出て来られては堪らない、ことにそれが毎月続かれては尚堪らない。昭和五年雑誌「冬柏」が出てからはさういふ状態が最後まで続いた。よほど根気のよ
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