に来る。 荻の葉に吹く秋風を忘れつつ恋しき人の来るかとぞ思ふ 以上二首は積極的であるが、以下は凡て消極的になる。[#底本では4字分の空白]源道濟のは 思ひかね[#「思ひかね」は底本では「思ひがね」]別れし野辺を来て見れば浅茅が原に秋風ぞ吹く 西行からは典型性を帯びて来る。 荻の葉を吹き棄てて行く風の音に心乱るゝ秋の夕暮 後鳥羽院のは一段とすぐれてゐる。 あはれ昔いかなる野辺の草葉よりかかる秋風吹きはじめけん 家隆にも一首あり 浅茅原秋風吹きぬあはれまたいかに心のあらんとすらん 伏見院のは 我も悲し草木も心痛むらし秋風触れて露下る頃 永福門院のは 夕暮の庭すさまじき秋風に桐の葉落ちてむら雨ぞ降る で之は少し趣きが違ひ風も荒く村雨も降る場合だが、その他は大抵似よつた心持が歌はれて居て日本の秋風がどんなものであるかは大体推定される。以上あげたのは秋風中の秀歌で、あとの何千首かは凡て風の様に吹かせて置けばよいので問題とするに足りない。さて之等に比較する時いかにこの歌が特殊面をもつた近代的のものであるかが分るであらう。この場合の近代性は分化を意味するのである。

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桃浦に古
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