きりに研究した。晶子さんは別に理由があつて余り好まれなかつたが、それでも埒外には出なかつた。唯我々は他と違つて万葉をまねようとはしなかつた。しかし旅に出た男が家にある妻を思ふといふ様なテマのあるのは、やはり万葉を読んだ影響のあらはれでもあらう。しかしテマを万葉に仮りただけで、吾々の作る処は常に現代の歌であつた。而して万葉人などの夢にも想到しない繊度と新味とを出さうと努めたのであつた、作者は千屈菜の花の咲いてゐるのを見てふと蟋蟀の事を思つた。これは近代人の感覚である。併しそれはモチイフであつて詩即ち芸術品にはまだならない。この感じは何かに具象されなければならない、而してその場合が特殊なものであるほど芸術品としての値は高くなるわけである。そこで作者は先づその蟋蟀を閨の床下で啼くものに特定し、またその閨を夫を旅に出した妻の空閨に限定し、感覚の持主をその旅に出てゐる夫としたのである。さういふ段取りで一個の芸術品としてのこの歌が出来上る。これは私の勝手気儘な臆測であるが順序立てて考へるとこんな風にもなるかといふ事を歌を作る人の御参考までに記したに過ぎない。而してモチイフたる感覚が近代感覚であるの
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