麻呂の作だとしても、貫之、和泉式部、西行、定家、伏見院さては近世の誰彼を以て比べても比較にはならない。二十代からなくなる六十五まで詠みつづけ、万を単位にして数へるほど詠まれたのであるから単に量の上からだけでも驚くに足りるのに、その内少くも二千首は秀歌の部類へ入るべき作で、之を古来の秀歌――私の標準に従ふと千首とはない――に比すると質の上からも一人で全体を遥に凌駕してゐる様に私には思はれる。しかし之を鑑賞する上からいふとその数の多い事が甚しく妨げとなつて、折角の宝も国民大衆とは殆ど交渉なく、少数のお弟子さん達の間にもてはやされ或は僅に好事家の書棚の隅に眠つてゐる位に過ぎない。之は甚しく不合理な事であると共に恐ろしく勿体ないことでもある。今や私達の日本は文化国家として新発足をする事になつたが、何を土台としてその上に何を建つべきであらうか。答の一半は明亮である。曰く近代の反動的風潮を一掃せよ。之を歌に就いて云へば万葉を一掃せよといふ事になる。罪が万葉にあるわけではないが、万葉の悪歌を祖述する反動的日本主義がわるいのである。又古臭い万葉などにこだはつてゐては新らしい詩歌の天地など開けつこはない
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