にしても熊本城にしても立派な美術品である。高く自ら標榜する光悦でも喜んで金を塗りさうな城の構へである。金はいふ迄もなく銀杏のもみぢである。
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旅寐する人のささやき雨の声潮の響き噴泉の音
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昔の別府、亀の井旅館の雨の夜のシンフオニイである。折から十一月の海が荒れて潮の響きさへ遠く聞こえたものらしい。旅寝する人のささやきは同行四人の自分らのささやきであらう。
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君と在る紅丸の甲板も須磨も明石も薄雪ぞ降る
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その帰途、紅丸が明石の門《と》にかかつた時雪が降り出した。よい時によい雪が降り出したものだと歎息したい位だ。もしこの時雪が降らなかつたらこの歌は出来なかつたであらう。為に日本文学は一つの大きな損失を来す所であつた。その位この歌の値打ちを私は高く評価するものである。晶子歌が何程勝れたものであらうと、神品といふべきものだけを拾つたらさう沢山ある筈はない。その第一はこの歌でないかと私は思つてゐる。再びナチかミリタリズムの世になつて晶子歌が全部亡ぼされる日が来たら、私はこの一首だけを石に彫して地に埋めるであらう。私は幾度か別府通ひの船に乗つた、紅丸にも二度乗つた。その度に甲板に立つてこの歌を朗誦する私を内海の鴎は聞きあきたことであらう。
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少女達田蓑の島に禊して人忘るとも舞を忘るな
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田蓑の島は淀川河口の三角洲で、難波名所の一つであつたらしい。この歌は大正九年五月大阪に行かれた時蘆辺踊りか何かを見て作つた歌。田簑の島で禊をして恋を忘れるといふ話を寡聞にして知らないが、蘆辺踊りに興じて毎年やつて欲しいと思ふ心持を少くも田蓑の島に寄せて時所を明かにしたものであらう。或は当夜難波十二景といふ様なものを出した中に昔の田蓑の島の場でもあつたのかも知れない。
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貧しさの極り無きと服したる不死の薬は別様のこと
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詩人文人多しといへども私の家ほど貧しい家はなからう。しかしそれにも拘らず昂然として私は呼吸してゐる。それは私が不死の薬を服し、従つてその作る処は不朽であることを知つてゐるからである。それと今現実に貧しい暮しをしてゐることとは別に関係はないのである。
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柏の葉青くひろがり朴の花甘き匂ひす鳥にならまし
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春になつて少しく山路に這入れば、朴の花が白く匂ひ、柏の葉の青く拡がる景色はどこでも見られる。唯鳥になりたいとは誰も思ひつかない所であつて、それがこの歌以前にこの歌のなかつた理由である。
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月夜よし海鳥の像の傍らのテラスに合はす杯の音
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巴里のことは今ではすつかり忘却の霧の中に這入つてしまつたのでどこに海鳥の像があつたか思ひ出せない。兎に角夏の夕の大きなカフェエのテラスで東洋の客がボツクの杯を合はしたのであらう。それを稍十年の後作者が思ひ出して作つた歌である。私は巴里を去つて既に二十五年になる。何にも思ひ出せないわけだ。
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衆人の喜ぶ時に悲しめど彼等歎けば我も歎かる
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一歩と云はず数歩と云はず世に先んずるものは皆さうであらう。人の憂ひに先立つて憂ふるが故である。しかし衆人の歎く時には我もまた歎くのである。つまり喜ぶといふことを知らずに死んでしまふのが、優れたものの持つて生れた悲しい運命なのである。
底本:「晶子鑑賞」三省堂
1949(昭和24)年7月25日初版発行
1979(昭和54)年1月25日復刊第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※引用された歌には、著者による表記変更や、引き写し時の誤りと思われる箇所がありますが、原則として、底本通り入力しました。
※底本にある、佐藤春夫の序文「この書とその著者」、新間進一・八角真の「あとがき」、年譜、短歌索引は入力しなかった。
※底本はすべての歌を、2字下げ17字詰めで組んでいる。テキスト中では単に2字下げとし、個別に字詰めを注記することはしなかった。
※「五杉山荘」と「五松山荘」、「抛書山房」と「抛書山荘」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:福地博文
2004年6月18日作成
2005年12月11日修正
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