フを為してゐること勿論の話だ。
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雪厚し長浜村の船大工槌打つほどの赤石が岳
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これも三津浜で作つたものの一つ、しかしこの歌はほんとうには私によくわからない。それをここへ出したのは、その取り合せが如何にも面白いからである。三津から見た富士は天下第一と云はれる美観だが、あの辺りからはまた低く赤石山脈も見える。浜は桜が満開なのに山は雪で真白だ。低くて手が届きさうにさへ見える、長浜村の船大工なら槌でこつこつ叩けさうな気がする。まあそんな風にこじつけて見るより外私には致し方がないが、まあ意味はどうでも宜しい。赤石岳と船大工の取り合せが面白いので私は之を愛誦する。
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さしかざす小傘《をがさ》に紅き揚羽蝶|小褄《こづま》とる手に雪散りかかる
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京の芸子のこつてりした風俗は、作者の好みによく合致したものらしく、第一集乱れ髪の主要テマとなつたと共にそれからも長い間歌題を供給した。この歌などもその最も成功したものの一つで、説明する迄もなく、昔の鴨東辺の情景が絵のやうにはつきり現はれてゐる。同じ雪の夜の歌に 友禅の袖十あまり円く寄り千鳥聞く夜を雪降り出でぬ 之は舞子ばかりの集りらしい。又 川越えて皷凍らぬ夜をほめぬ千鳥啼く夜の加茂の里びと 又明けては 後朝《きぬ/″\》や雪の傘する舞衣うしろ手見よと橋越えてきぬ 冬川は千鳥ぞ来啼く三本木紅友禅の夜著干す縁に 舞衣五人紅《いつたりあけ》の草履して河原に出でぬ千鳥の中に 嵐山名所の橋の初雪に七人渡る舞衣かな など色々あるが皆とりどりに面白い。
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再生の荷葉《かせふ》と拝む大愚なき世に安んじてよく眠れ牛
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伊豆伊東に近い大室山[#「大室山」は底本では「大宝山」]の麓にこの頃一碧湖といはれてゐる吉田の大池がある。その丘陵上に島谷亮輔さんの抛書山房があるが、先生夫妻の好んで遊ばれた所である。近年乳牛も飼はれてゐたので、乳牛の歌も数首作られた、その一つ。大愚といふ和尚は支那にも日本にも居る。荷葉の生れ替りだといつて牛を拝んだといふ話、私は知らないがありさうな話だ。牛から云へば至極迷惑のことでくすぐつたいこと夥しく、こんなことが始終あつては落付いて眠れもしない。しかし安心するがよい、牛の拝めるやうな大悟徹底した坊さんは今日ゐないからといふわけである。牛を詠んだのやら禅僧をなめたのやら、どちらつかずの辺にこの歌の面白味が漂ふのであらう。
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酒造る神と書きたる三尺の鳥居の上の紅梅の花
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私はこの社のことを知らないからこれ以上説明しようもないが、三尺の鳥居といふからは極く小さいもので従つて或は路傍の小社らしくも思はれる。或は造り酒屋の庭の隅などにあるものも想像される、さうだとすれば鳥居の文字と紅梅とを取り合せて早春の田舎の情調を出さうとしたものではなからうか、すつきりした気持のよい歌である。
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春雨の早雲寺坂行きぬべし病むとも君がある世なりせば
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箱根の湯本で之もお弟子の鈴木松代さんの経営する吉池の奥の別棟に、少しく病んで逗留して居られた時の作。[#「。」は底本では「、」]もし世が世であつたら、雨を侵し病を押してでも直ぐ上の旧道へ出て急な早雲寺坂を登りもするのだが、今はとてもそんな気力はない、室にこもつて一入春雨にぬれる箱根路の光景を想像するだけだといふ例の良人を欠く心持を春雨に托し病に托し情景相かなはせた歌だ。
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手力《たぢから》の弱や十歩《とあし》に鐘やみて桜散るなり山の夜の寺
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山寺の夜桜を賞する女連れが試みに鐘をついた所、嫋々として長く引くべき余音が僅に十歩行くか行かないうちに消えてしまつた。女の力なんて弱いものねといふほどの興味を表へ出した朧月夜の日本情調である。
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雲にして山に紛《まが》ふも山にして雲に紛ふも咎むる勿れ
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二つ前のそれと同じ時湯本で早春の箱根に雲の往来する姿を朝夕眺めつつ、或時は雲にして山に紛ひ、或時は山にして雲に紛ふ変幻極りない山の事象を其の儘正抒し、それをかりて同時に現象世界の不合理不都合を許容しようとする心持をさへ咎むる勿れといふ一句で象徴したものと解せられないこともない。
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伽藍過ぎ宮を通りて鹿吹きぬ伶人めきし奈良の秋風
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山川草木一切成仏といひ有情非情同時成道などといつて大乗仏教には人とその他とを区別しない一面がある。晶子さんは大乗経典も一通り読んで居られるが、晶子さんの同
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