吹の白花となり零るゝや春の夕も冷やかにして
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 山吹の白くなつてやがて枝から落ちるのは春も進んだ五月になつてのことであるが、そのうら淋しい様子を見ると冷い感じがするのであらう。

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衰ふるもの美くしく三十路をば後に白き山桜散る
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 私も三十を越えて衰へ方に向つた。しかしそれは若い時考へたやうないとふべきものではなかつた。衰へも亦美しい。丁度山桜のあの散り方のやうなものである。あの桜は三十を過ぎた私のやうなものだ、而してあの満開時に見られぬ散り方の美しさを見るがよろしいといふので、この人の人柄からすればやはり人生肯定の歌であらう。

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窗鎖さで寐れど天城の頂と今さら何を語るべき我
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 昭和二年頃の歌。熱海ホテルに泊られ夏のこととて窗をささずに寐た。私も少し若かつたら窗から見える筈の大室山の頂きに対して或は心の丈を訴へたり不満を洩らしたりしたかも知れない。しかしすつかり大人になつてしまつた今は語るべき材料もなくなつた。唯窗をあけたまま眠る許りである。

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我にある百年は皆若き日と頼みて之を空しくもせじ
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 日日是好日の端的であるが、作者などは生れながらにして之を体得しその覚悟を以て日々最善を尽くしてこられた。あれだけの幅のある大きな業績と結果とを残したのは全くその御蔭である。

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雪の後紅梅病めり嘴のあらば薬を啄ませまし
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 晶子の万有教の最も顕著な現はれの一つである。荻窪の釆花荘には直ぐ窓際に早咲きの紅梅があつて一月頃にはもう咲く慣はしであつた。従つて雪の方が後になる。これは紅梅を鶯のやうな鳥の一種と観じ嘴のないのを惜しむ[#「惜しむ」は底本では「憎しむ」]心であつて、比喩でも、象徴でもない、万有を友とする詩人の真情の其の儘吐露しただけのものである。

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憎むにも妨げ多き心地しぬわりなき恋をしたるものかな
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 憎みたいのである。それなのにそれが出来ない色々のわけがあるとは困つた恋をしてしまつたものである。歎くが如く喜ぶが如く甚だ単純でない所が晶子さんの開拓した明治抒情詩の新境地であるが、それ許りではない、この歌は調子もよくそつもなくこの時代の作としてはよく出来て居て、円熟した後年の風が既に見えてゐる。

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川ならぬ時の流れの氷れかし斯くの如くに踏みて行かまし
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 これは昭和二年の正月函根の小涌谷の三河屋に滞在中、強羅へ出掛けたことがあつたが、その途で早雲山から流れ落ちる山川の氷つてゐた上を渉つて行つた、その時の歌である。形なきものに形を与へ、目に見えぬものを目に見えるものにすることが芸術家、詩人の仕事である。然らば時の流れを川の流れに変へさせること位は詩人の茶飯事であらうが、人から見れば面白い感想である。

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後より来しとも前にありしとも知らぬ不思議の衰へに逢ふ
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 三十を越えると自分にも漸く衰へが見えて来たが、しかしよく案ずると不思議なものだ。衰へといふものが前途にゐて私の来るのを待つて居た様にも思へるし、若い時色々心を苦しめ身を悩ましたその為に衰へたのであらうから、私のあとから私について来たものの様にも思へる、不思議なものにいよいよ出会つてしまつた。これは遂に男の感じない感じでもあるしこの歌のよしあしは私には分らない。

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蜩の声に混じりて降る雨の涼しき秋の夕まぐれかな
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 西行にあつて欲しい歌であり、伏見院にあつて欲しい歌であり、その使つてある文字一つとして珍しいものはない。それにも拘らずやはり晶子以前には誰もこれほどの組み合せを作つてゐない。言葉のコンビネエシヨンの如何に微妙で又摩訶不可思議なものであるかが分る。

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紫と寒き鼠の色を著て身をへりくだり老いぬなど云ふ
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 紫は作者の最も好む色彩でこれだけは放さないが、三十を越えたしるしにとわざと寒さうな鼠色の下著を重ねて、年をとりましたからと謙遜して見る、それも興なしとはしない。これは恐らく実景であつたことだらう。

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我昔前座が原の草に寝て忘るゝ術を知らざりしかな
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 これは昭和二年八月那須での作。もし前座が原が那須山上の高原の名でもあるなら、若い頃一度那須へ来た事がある様に思はれるが、その証跡歌などには残つてゐない。意は、私は昔ここへ来て草の上に横になつて心の悩みを忘れよ
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