出て来てしきりに啼く。その声を聞いてゐると何の理由もなく年老いた母の姿が目の前にあらはれる。それは木の下に白髪をかき垂れ後ろ手をして立つてゐる姿だが、不思議なこともあるものだ。聴覚と視覚と相交錯し相影響する詩人の幻像であるからどうにもしやうがないが、歌が旨ければ読者はつり込まれてついそんな気になるのである。それだけでよいのであらう。

[#ここから2字下げ]
暗き灯を頼りて書けば蓼科も姥捨山の心地こそすれ
[#ここで字下げ終わり]

 山の中の電灯の火が恐ろしく暗い。その暗い灯の下で物を書いてゐると、ふと、この蓼科も今の世の姥捨山で年老いた自分はここに捨てられてゐるのだといふ気がして来た。全くありさうな連想でその頃の心の寂しさやるせなさがよくあらはれてゐる。

[#ここから2字下げ]
武蔵野は百鳥栖めり雑木の林に続く茅《かや》草の原
[#ここで字下げ終わり]

 この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうにかしましいものであつた。それを百鳥栖めりとやつたのである。

[#ここから2字下げ]
山寺に五十六億万年を待てと教へて鳴り止める鐘
[#ここで字下げ終わり]

 寛先生の百日祭がつゆ晴れの円覚寺で行はれた。恐ろしく蒸し暑い日で法要終了後帰源院で歌を作つたが、暑さに堪へないで外に出て鐘楼へあがつて諸人鐘を撞いた。それで当日は皆鐘の歌がある。これもその一つで、五十六億万年とは弥勒仏出現の日で、その日が来ればまた逢へるかも知れないからそれまでは待てといつて鐘が鳴り止んだ。山寺の鐘の教ふる所であるから正しいのであらうが、さりとては余りに長過ぎる話ではないか、とても待てさうにもない。

[#ここから2字下げ]
海底の家に日入りぬ厳かる大門さしぬ紫の雲
[#ここで字下げ終わり]

 これは海の落日を、日の大君のお帰りといふ程の心を晶子さん得意の筆法で堂々と表現したものである。日の入つたあとに紫雲が涌き出して厳かに大門を閉ぢるなど印度の経文にでもありさうだ。

[#ここから2字下げ]
笹川の流れと云ふに従ひて遠く行くとも君知らざらん
[#ここで字下げ終わり]

 越後の寺泊から北上して出羽に向ふ車中での作。一人淋しく辺土を旅する心がこんなによく現はれてゐる歌は少い。ただ静かに打ち誦して老女詩人の旅情に触れ、少しでも私達の魂を洗はせて貰はう。同じ時の作には 遠く来ぬ越《こし》の海府の磯尽きて鼠《ねず》が関見え海水曇る などがある。

[#ここから2字下げ]
自らの腕によりて再生を得たりし人と疑はで居ん
[#ここで字下げ終わり]

 もし私といふものがあつて此の人を愛してやらなかつたら、此の人はとうに死んで居たらう、少くとも精神的には。して見れば私は此の人を再生させた大恩人で誰もかなはない貴重な存在でなければならない。私はそれを疑はない、何も心配はしないといふのであるが、実は心許ない感じがあつての事であらう。

[#ここから2字下げ]
北海の唯ならぬかな漲るといふこと信濃川ばかりかは
[#ここで字下げ終わり]

 越後の寺泊で五月雨に降りこめられた時の歌。海さへ為にふくれ上つて信濃川の漲るやうな心持が北海の上にも見られた。それが作者には唯ならぬ様子として映つたのである。唯ならぬとは女の孕んだ時などに使はれる言葉で、さういふ気持がこの時にも動いてゐる。

[#ここから2字下げ]
君乗せし黄の大馬とわが驢馬と並べて春の水見る夕
[#ここで字下げ終わり]

 春宵一刻千金とまでは進まぬその一歩手前の夕暮の気持を象徴的に詠出したものであらうか。男は黄の大馬――そんなものはあるまいが――に乗り女は小さいから驢馬に乗り、それが並んで川に映つてゐる。春の夕の心が詩人の幻にあらはれてこんな形を取つたのであらう。

[#ここから2字下げ]
寺泊馬市すてふ海を越え佐渡に渡さん駒はあらぬか
[#ここで字下げ終わり]

 今日は馬市が立つといふので表がざわめいてゐる。一躍して海を越え佐渡に渡すことの出来るやうな駿馬が多くの中には一頭位居ないであらうか。佐渡には旧友渡邊湖畔さんが蹲つて居られるが、私が突然行つてあげたら喜ばれるだらうになどいふわけである。

[#ここから2字下げ]
思はるる我とは無しに故もなく睦まじかりし日もありしかな
[#ここで字下げ終わり]

 初めの頃の事を思ふとまだ恋などといふ形も具へずに子供同志の何の理由もなく唯睦じく語り合つたのであつた。何時頃からそれが恋になつたのであらうか。それは兎に角としてさういふ初めの頃の事も懐しく思ひ出される。善良なやさしい非難の余地のない斯ういふ歌も作者はいくつか作
前へ 次へ
全88ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング