景を見ない様に私の目をつかまへて牢屋に入れたいが、そんな牢屋はないだらうかといふのである。目を牢獄につなぐといふ様な思ひ切つた新らしい表現法は当時から晶子さんの専売で誰も真似さへ出来なかつた。

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思ひ出に非ずあらゆる来《こ》し方の中より心痛まぬを採る
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 故人と共に過した四十年の人生は短いものでもなく随分忍苦に満ちた一生ではあつたが、生甲斐のあるやうに思つた年月も少くはない。私は既に年老い心も弱くなつたので、人の様に様々の思ひ出に耽る気力はない。今私の為し得ることは、一切の過去の出来事の中から老の心を痛ませない様なものだけを取り出して見ることである。それが私の思ひ出である。何といふあはれの深い歌であらうか。

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今日もなほうら若草の牧を恋ひ駒は野心忘れかねつも
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 こんなに好い事が重つてゐる、それだのに今日もなほ、野放しだつた頃、親の家に居て仕度い三昧に暮してゐた頃のことが忘られず、不満に似たやうな心も起きる、困つたことねと先づこんな風な心持ではないかと思はれるが、もと象徴詩の解釈だから、それは如何やうとも御勝手だ。

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筆とりて木枯の夜も向ひ居き木枯しの秋も今一人書く
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 之は寛先生の亡くなられたその年の暮に詠まれた歌であるが、之より先 源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず といふ身にしみる歌が作られて居り更に 書き入れをする鉛筆の幽かなる音を聞きつつ眠る夜もがな といふのもあつて、老詩人夫妻の日常生活がよく忍ばれるのであるが、それがこの場合は年も暮れんとし木枯しの吹きすさぶ夜となつただけに哀れも一しほ深いのである。

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判官と許され難き罪人は円寝ぞしけるわび寝ぞしける
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 判官は判事で男とすべきであらうから従つて罪人は女といふことになる。さてこの罪人の許され難き罪とは何であらうか。しかし裁判は終結しない儘休憩となり、ごろ寝をする、しかしもともと終結してゐないのであるから佗寝以上には進みやうがない。依つてその罪も相当重い罪であることが分るわけである。

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冬の夜の星君なりき一つをば云ふには非ず尽く皆
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