舟寺で作つた歌の一つ、その日は薄曇りであつたのに突然雲がきれて富士が顔を出した。それはどうしても羽左衛門といふ形である。大向うから立花屋といふ声がかからないではゐないといふわけである。私は若い時吉井勇君にそのよさを教へられて以来羽左がたまらなく好きになつて、よそながら死ぬまで傾倒したものだから、私にはこの歌の感じが特によく分る。ぱつたり雲を分けて出て来たのはどうあつても羽左でなければならない。外の役者ではだめである。これからの若い人達の為にこの間まで羽左といふ小さい天才役者のゐたことを書きつけて置いてこの歌の感じをよそへることにする。

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君は死にき旅にやりきと円寐しぬ後ろの人よものな云ひそね
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 別に説明を要しないであらう。唯その言葉の音楽の滑るやうな快調がほんとうに味はへれば、それでこの歌の観賞は終るわけである。

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長閑なり衆生済度の誓ひなど持たぬ仏にならんとすらん
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 同じく鉄舟寺での作。その時の住持は私も一度御目にかかつたが近頃珍しい老清僧で、知客、典座の役まで一人で引受けられる位気軽な、良寛ほども俗気のない方だつた。さういふ和尚さんを相手に何の屈托もなく春の一日を遊び暮す作者の心持、それがあらはれてこの歌になるのである。

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君まさぬ端居やあまり数多き星に夜寒を覚えけるかな
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 夫の留守を一人縁に出て涼んでゐたが、ふと夜空を仰ぐと降るやうな一面の星だ。それを見てゐると急に寒くさへなる。作者に於ては冴えた星の光と寒さとの間に何か感覚のつながりがあるであらう。

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明星の山頼むごと訪ねきて積る木の葉の傍に寝る
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 十二年の晩秋箱根強羅の星山荘にあつての作。明星の山は前の明星が岳である。あの山を頼みにして訪ねて来たのに、この落葉の積りやうは如何だ、まるで落葉の中に寝に来たやうだ。積る木の葉の傍に寝るとは何といふ旨さだ、唯恐入つてしまふ。

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相人よ愛欲せちに面痩せて美くしき子によきことを云へ
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 面痩せて美しき子即ち痩せの見える細面《ほそおもて》の美人が、愛欲の念断ち難く痩せるほど悩んで、未来を占はせてゐるのだ、人相見さん、
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