ひぬ愛宕《をたぎ》の郡
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 晶子秀歌選を作るに当つて私はそのプレリウドの一つに「古京の歌」なる小題を設け、八十五首を収めた。曰く「年二十四で上京される迄両親の膝下で見聞された京畿の風物は深く作者の脳裡に刻み込まれてゐて、上京後も長い間ここに詩材を求められた。舌足らずの感ある初期の作中でも京の舞姫を歌つたものは難が少い。風物鑑賞は作者の最も得意とする処で本集後半の歌の大部分はこの種類に属してゐるがそれが早期にあらはれた分中、京畿を対象とするものを収めた」と。そこで鑑賞の方も若い面はしばらく「古京の歌」ばかりになる。この歌も別に説明を要しない。唯上等の読者はその中に鶯の囀るやうな音楽を聴き分けることが出来るに違ひない。

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法師の湯廊を行き交ふ人の皆十年ばかりは事無かれかし
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 法師温泉は今時珍しい山の中の温泉で電灯さへない。温泉は赤谷川の川原を囲つたやうな原始的な作りで、長い廊下でおも家と結ばれてゐる。そこで湯に入る為に「廊を行き交ふ」ことになる。私は十余年を隔ててゆくりなくもまた法師湯に浸つた。しかしその間に私には一大変化が起りこのやうにやつれてしまつた。今日ここへ来て湯に入る人達だけは、せめてあと十年間は事の起らないよう、祈らずにはゐられないといふので、洵にこの作者に著しい思ひやりの深い、自他を区別しない温かい心情のにじみ出てゐる作である。

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鳴滝や庭滑らかに椿散る伯母の御寺の鶯の声
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 手入れのよく届いた御寺の庭を庭なめらかにといひ、椿をあしらひ、鶯をあしらひ更に伯母の御寺と限定具象して鳴滝辺の早春の情調を漂はせた美しい作である。

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赤谷川人流すまで量まさる越の時雨はさもあらばあれ
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 赤谷川はその源を越後境の三国峠に発して法師湯の前を流れる常時静かな渓流である。それが急に水量が増した。越後側に降つた時雨がどんなものであるかそんなことは考へないことにするが、唯この目前の水量の増し方は如何だ、一歩足を入れゝば押し流されさうだ。

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春の水船に十人《とたり》の桜人《さくらびと》皷打つなり月昇る時
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 嵯峨の渡月橋辺の昔の光景でも想像しながらこの歌を
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