大悟徹底した坊さんは今日ゐないからといふわけである。牛を詠んだのやら禅僧をなめたのやら、どちらつかずの辺にこの歌の面白味が漂ふのであらう。

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酒造る神と書きたる三尺の鳥居の上の紅梅の花
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 私はこの社のことを知らないからこれ以上説明しようもないが、三尺の鳥居といふからは極く小さいもので従つて或は路傍の小社らしくも思はれる。或は造り酒屋の庭の隅などにあるものも想像される、さうだとすれば鳥居の文字と紅梅とを取り合せて早春の田舎の情調を出さうとしたものではなからうか、すつきりした気持のよい歌である。

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春雨の早雲寺坂行きぬべし病むとも君がある世なりせば
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 箱根の湯本で之もお弟子の鈴木松代さんの経営する吉池の奥の別棟に、少しく病んで逗留して居られた時の作。[#「。」は底本では「、」]もし世が世であつたら、雨を侵し病を押してでも直ぐ上の旧道へ出て急な早雲寺坂を登りもするのだが、今はとてもそんな気力はない、室にこもつて一入春雨にぬれる箱根路の光景を想像するだけだといふ例の良人を欠く心持を春雨に托し病に托し情景相かなはせた歌だ。

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手力《たぢから》の弱や十歩《とあし》に鐘やみて桜散るなり山の夜の寺
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 山寺の夜桜を賞する女連れが試みに鐘をついた所、嫋々として長く引くべき余音が僅に十歩行くか行かないうちに消えてしまつた。女の力なんて弱いものねといふほどの興味を表へ出した朧月夜の日本情調である。

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雲にして山に紛《まが》ふも山にして雲に紛ふも咎むる勿れ
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 二つ前のそれと同じ時湯本で早春の箱根に雲の往来する姿を朝夕眺めつつ、或時は雲にして山に紛ひ、或時は山にして雲に紛ふ変幻極りない山の事象を其の儘正抒し、それをかりて同時に現象世界の不合理不都合を許容しようとする心持をさへ咎むる勿れといふ一句で象徴したものと解せられないこともない。

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伽藍過ぎ宮を通りて鹿吹きぬ伶人めきし奈良の秋風
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 山川草木一切成仏といひ有情非情同時成道などといつて大乗仏教には人とその他とを区別しない一面がある。晶子さんは大乗経典も一通り読んで居られるが、晶子さんの同
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