ばしたものであるが、また同じ作者のものが一生を通じて生活の基調を為してゐて少くも変ることがなかつた。

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唐傘《からかさ》のお壼になりし山風の話も甲斐に聞けばおどろし
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 前記依水荘に出養生に行つて居られた時の作の一つ。夏の山の雨は往々にしてすさまじい勢ひを見せるものだ。この間にもさういふ雨が降つたと思はれ その昔島田の橋に君の会ひ我の会ひたる山の雨降る といふ歌があるが、その風雨の中を帰つて来た人の話を聴いて、こわいことだと山国の甲斐にあることを感じたのである。

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わが春の笑みを讃ぜよ麗人の泣くを見ずやと暇《ひま》なきものか
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 これは第三集「毒草」にある歌で、その調子は既に生長してゐて流麗まことに鶯の囀ずる如きものがある。さて歌の意味であるが一寸分りにくい。当時作者の好んで歌つた京の舞姫の場合ではないかと思ふ。さうだとすれば朝は「私の笑顔をほめよ」といひ夕は「こんな美人が泣いてゐるのに」と戯れつつたわいない一日を過ごすといふ様に解せられるが如何いふものだらうか。

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死も忘れ今日も静に伏してあり五月雨注ぐ柏木の奥
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 これも大分よくなられてからの歌だと思ふが、前の西門の入日の歌もあり又末嬢の藤子さんの家の焼けたことを依水荘で聞かれて やがてはた我も煙となりぬべし我子の家の焼くるのみかは と死の近づきを想見する歌もあるが、床上生活の大部分はこの歌のやうに静かに余りものを考へずに休んで居られた時間であつたらうと想像せられる。人間性の尊貴のために又自己の天分を高度に発揮しようとしてその旺盛な生活力を駆つて一生奮闘し続けた作者を知るものに取つては、せめて残された床上の生活位は安らかなものであつて欲しかつたが、事実もさうであつたらしくこの歌をよんでほつとした人も多いことであらう。

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いとせめて燃ゆるがままに燃えしめよ斯くぞ覚ゆる暮れてゆく春
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 春はいま終らうとしてゐる、その間だに青春の血の燃ゆるに任せようといふ例の積極的な力強い感じが批の打ち処なく美しくあらはれてゐる名歌の一つ。作者もこの歌は捨てなかつた。

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隅田川長き橋をば渡る日のありやなしやを云はず
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