つてゐる。
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良寛が字に似る雨と見てあればよさのひろしといふ仮名も書く
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寺泊の海に降る五月雨を何とはなしに眺めて居るとそれが段々良寛の字に似て来た。良寛はこの辺りの人であるから、その事が頭にあつてこんな感じも出て来たのであらう。さて降る雨に良寛の字といつても雨の事だからせいぜい仮名であらう、それを書かせてゐるとそのうちによさのひろしといふ仮名の書かれてゐることをも発見したといふのである。何といふ面白い歌だらう。俗調を抜き去つた老大家でなくては考へも及ばない境地である。しかしこの仮名の署名は実際に故人によつても幾度か使はれたことのある字句だ。
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天地《あめつち》のいみじき大事|一人《いちにん》の私事とかけて思はず
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私の様な非凡人のする事は、それが一私人の私事であつても、それは同時に天地間の重大事件となり得るのである。私はさう思つて事に当つてゐる。君を愛する場合もその通り、これは私事ではありません、天地間の重大事件です、ですからその積りで御出でなさい。この歌は如何といふ場合にも当て嵌まるが、こんな風に取つても差支ないであらう。
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山山を若葉包めり世にあらば君が初夏我の初夏
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故人に死に別れた年の初夏、始めて家を離れ箱根強羅の星さんの別荘に向はれ、傷心を青葉若葉に浸す事になつた時の作。去年までの世の中なら一しよに旅に出て心ゆく迄初夏を味はつたことであらうに、今年は一人強羅に来て新緑の山々に相対してゐる。唯一年の違ひが何という変り方だ。実際その前年も故人と共に塩原に遊んで、君の初夏我の初夏を経過してゐる位だから感慨も深い筈だ。
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人ならず何時の世か著し紫のわが袖の香を立てよ橘
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前にも一度 rebers[#「rebers」はママ] した古今集の 五月待つ花橘の香を嗅げば昔の人の袖の香ぞする といふ歌を本歌とすることいふ迄もない。「人」は他人の意で、昔の人と云はれて居るが、それは他人ではない、前生の私である、昔の人の袖の香とは、何時の世にか私の著た紫の袖の移り香のことである。歌の様にも一度立てておくれ、私はそれを嗅いで前生の若かつた日を思ひ出すことにしよう。私は古今集
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