老晶子でなければ作れない歌だ。島谷さんの抛書山荘から上に中秋の明月が懸り下に吉田の大池のある風景を非絵画的に少しも形態に触れることなく、その本質のみを抽出して詠出したもので一寸類の少い作例である。しかも両鏡互に相映じて一塵をも止めざる趣きは同時に達人の心境でもある。
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君まさず葛葉ひろごる家なれば一叢《ひとくさむら》と風の寝にこし
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茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。
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裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の侮り難しあきらめぬ蝉
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これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。諦めないといふことも斯くては侮り難い。東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に 山裾に汽車通ひ初めもろもろの蝉洗濯を初めけるかな といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては もろともに引き助けつつこの山を越え行く虫の夜の声と聞く といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。
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恋人は現身後生|善悪《よしあし》も分たず知らず君をこそ頼め
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ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向《ひたむき》な心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。
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松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁
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下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の
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