、庭の萩を見ながら詠まれたもので、作者の平安趣味のすらすらと少しも巧まずに眼前の風物を縁にあらはれてゐる気持のよい歌である。しかし斯ういふ歌はあまり真似をしてはいけない。真似ても歌にはなりにくい。なぜなら人間の反映がこの歌を為してゐる。さういつても過言でないからである。

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少女《をとめ》なれば姿は羞ぢて君に倚る心天ゆく日もありぬべし
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 晶子さんを親しく知らない人は、その書いたものから逞しい女丈夫などを想像するかも知れないが、実は若い時から物静かなはにかみやで、見た所は純日本風のしとやかな奥様でしかなかつた。唯心中に炬火が燃え盛つてゐて、又自らの天分を高く評価して居られたのが他との相違である。それをその儘詠出するとこの歌になる。

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片隅に柿浸されし上つ毛の古笹の湯の思はるる秋
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 静かに病床に横たはる長い病人が、大分薄れた意識で曾遊の地を思ひ出す場合、印象の強く残つたものだけが浮び上つて来ることだらうと推定される。従つてさうして出来た歌も自ら印象的のものとなつて、殆ど凡てが金玉の響を伝へ、その数は少いが健康時の作の持たぬ濃いニユアンスを持つのはその処である。この歌もその一つで、渋を抜く為に温泉に浸されてゐた柿の色が強く印象に残つてゐたものと思はれてこの歌が出来たのであらう。作者が笹の湯に遊んだのは十四年頃で 逞しき宿屋の傘を時雨やみ大根の葉へ我置きて行く などその時も多数の作が残つてゐる。

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紫の我が世の恋の朝ぼらけもろての上の春風薫る
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 久しくあこがれてゐた恋がいま成就しようとしてゐる、その時の心を、かぐはしい朝の春風がもろ手の上にをどるといふ境に具象した歌であるが、こんな歌さへ晶子以前には決してなかつただらう。因に紫といふ色は晶子好みとでもいふべき色で、著る物なども多くこの色で染められ晩年まで変らなかつたといふことである。

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友帰り金剛峰寺の西門の入日に我をよそへずもがな
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 常に吟行を共にした御弟子の近江滿子さんが一人高野山に登られたのを病床で想像しながら詠まれた歌の一つ。何れ死ぬのであらうが死ぬ事はやはり淋しい事だ。そんな事は思ひたくないといふ感じを西門の入日
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